The General Vol.13 No.2 P6
SCENARIO 24
The glorious first of June 1794
プレリアルの海戦
  French 26隻(Av) VS British 25隻(Cr)
  フランス軍の最初の大作戦。ヴィラーク・ジョイキュス海軍大将(Adm. Villarc1-Joycuse)は、イギリスの輸送船団を襲撃するためブレストから出航した。
イギリスの輸送船団を襲撃するためにブレスト(Brest)から出港した。ハウ提督(アメリカ独立戦争で有名な提督)が彼に追いつき、決断を迫った。7月11日、ブレストから200マイル離れた外洋で、彼はそれを実行した。
その結果、7隻のフランス船が撃沈され、フランス艦隊は壊滅した。その後、何年もの間、両国は海戦することがなかった。

SCENARIO 25
PELLEW VS. DROITS DE L'HOMME, 16 January 1797
1797年1月13日の海戦 (74門艦ドロワ・ド・ロム)
  French 1隻(Av) VS British 2隻(Cr/El)
 

フランスのイギリス侵攻が現実の脅威だった時代、フランスの戦列級一隻とSir. Edward Pellew率いる二隻のフリゲートが対決、イギリスが勝利を収める。

1797年、警戒が緩んでいたため、フランス軍は2万人の兵士とアイルランドの反乱軍リーダー、ウォルフ(Wolfe Tone)を乗せ ブレストから抜け出ることができた。
フランス軍はアイルランドのBantry Bay沖合に数日間待機したが悪天候のため上陸できなかった。ブレストに戻った艦隊は嵐で散り散りになった。一行のうちの一隻は、不運にもエドワード・ペリュー船長(Sir Edward Pellew、シナリオ9参照)と遭遇し、大損害を受けた。夜通しの戦闘の末、Droits de l'HammeとAmazonは大破し、Pellewの船が唯一生き残った。
2017年8月27日(日)対戦


SCENARIO 26
CAPE ST. VINCENT, 14 February 1797
サン・ビセンテ岬の海戦
  British 15隻(Cr) VS Spanish 26隻(Cr)
  1797年初頭。スペインはフランスと同盟を結んだ。フランス海軍の練度は低かったが、艦船は立派だった。アイルランドでの作戦のため、フランス軍はスペイン艦隊に対し、ブレストでの結集を命じた。フランス海軍はブレストに到達できたが、別行動をとっていたスペイン艦隊は、Adm. Jervis率いる英地中海艦隊の待ち伏せにあい、わずか15分でSan NicolasとSan Josefを失った。

SCENARIO 27
CAMPERDOWN, 7 October 1797
キャンパーダウンの海戦
  British 15隻(Cr) VS Spanish 26隻(Cr)
  1797年初頭、スペインはフランスと同盟を結んだ。フランス海軍の練度は低かったが、艦船は立派だった。アイルランドでの作戦のため、フランス軍はスペイン艦隊に対し、ブレストでの結集を命じた。フランス海軍はブレストに到達できたが、別行動をとっていたスペイン艦隊は、Adm. Jervis率いる英地中海艦隊の待ち伏せにあい、わずか15分でSan NicolasとSan Joseを失った。

SCENARIO 28
COPENHARGEN, 2 April 1801
ペンハーゲンの海戦
  Danish 25隻(Av) VS British 12隻(Cr)
  大陸の敵との争いが絶えなかったイギリスは、フランスを封鎖した。イギリスが中立国の貿易に干渉したことも各国の憤慨を招いた。1800年、ボナパルト将軍がプロシア、スウェーデン、ロシア、デンマークの説得に成功し、アメリカの武装中立同盟を復活させ、イギリスによる公海貿易の支配に抵抗することを誓った。
そこでイギリス海軍は、最も近くにあった敵同盟国を攻撃することで、同盟側に思い知らせることにした。それはデンマーク海軍だった。
「コペンハーゲン作戦」は、爆弾船との共同作業であった。
リュー(Riou)艦長率いる爆弾船とフリゲート艦がトレクロン砲台と交戦した。
ネルソン少佐が主力戦隊を率いて、残りの艦隊はハイド・パーカー提督の指揮下した。パーカー提督はネルソンの状況を把握することができず、クライマックスで戦闘を中断するよう指示したのはパーカーだった。
デンマーク海軍は壊滅し、プロシア、スウェーデン、ロシア、デンマークはイギリスの海上覇権に異を唱えることはなかった。

SCENARIO 29A
ALGECIRAS, 6 July 1801
第一次アルヘシラスの戦い
  Britsh 7隻(Cr) VS French 3隻(Av)
  エジプトに残してきた軍隊を救援するため、ボナパルトはリノワ少佐にカディス(Cadiz)でスペイン艦隊と合流するよう命じた。イギリスの大軍がこの海域にいることを知ったリノワは、ジブラルタル海峡の内側、アフリカ海岸のアルヘシラス(Algeciras)に入港した。ジェームズ・サウマレス(James Saumarez)提督とその艦隊は、遠く離れてはいなかった。
サウマレスが夜間行動でフランス艦隊を捕らえ、海戦はイギリスの勝利に終わった。
サウマレスは騎士の称号を授与された。

SCENARIO 29B〜29D
ALGECIRAS OPTIONAL SCENRIO
   
  29Aのバリエーション

SCENARIO 30
LAKE CHAMPLAIN, 11 September 1814
シャンプレーン湖の戦い
  British 3隻(Cr) VS American 4隻(Cr)
  ヨーロッパでの戦争が終わったことで、イギリスは北米に攻勢をかけることができるようになった。
イギリスは援軍をカナダに送り、1814年8月、カナダ総督は11,000人の兵を率いてアメリカとの国境を越えた。
アメリカがエリー湖(Lake Erie)とオンタリオ湖を海軍の支配下においていたため、ハドソン川が唯一の航路であった。この航路を維持するために南下する部隊は補給路を確保する必要があった。
アメリカ海軍は、この戦争で最も決定的な勝利を収めた。

SCENARIO 31
LAST VOYAGE OF THE PRESIDENT, 15 Janurary 1815
  British 3隻(Cr) VS American 1隻(EL)
  イギリスは1814年の大半を、小さなアメリカ艦隊の位置を突き止め、港を封鎖することに費やしたが、これは完全には成功しなかった。12月にボストンを出発したConstitution号は、一隻の戦艦と数隻のフリゲート艦の横をすり抜け、その2ヵ月後、Cyane号とLevant号を破った。

SCENARIO 32
THE BATTLE OF NAVARINO, 20 October 1827
ナヴァリノの海戦
  British/French/Russians 11隻(CR/AV) vs Ottoman 21隻(Av)
  1821年から始まった宗主国オスマンに対するギリシャの反乱は、ヨーロッパ諸国の支援を受け、Navarinoでトルコ・エジプト艦隊との決戦となった。オスマン帝国は1/4以上の艦船を喪失した。