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オスマン帝国
ウオーゲーマーのための「イスラムの聖戦」解説 (前編)

(この記事はS&Tの翻訳とは微妙に異なります。付録ゲーム「Ottomans」のユニットやマップに登場する人物、地名は英語のままにしています。)

フランス王国・ハプスブルク家・オスマン帝国 三者の思惑


カール5世

当時のヨーロッパを分断する二大勢力は、フランス王フランソワ1世とオーストリアのハプスブルク家・カール5世だった。
1519年、フランス王フランソワ1世は、神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ選挙に名乗りをあげたが、豪商フッガー家が支援するカール5世に負けていた。神聖ローマ皇帝となったカール5世はその権力でスペインを統合し、ドイツの諸侯を支配、フランス王国を挟む支配体制を作った。
フランソワ1世はフランスは、スペインと神聖ローマ帝国によって包囲されたことに危機を覚え(実際、その危機感は正しいものだった)、「敵の敵は味方」の諺言の通り、かつて十字軍遠征で戦った相手、オスマン帝国と同盟を結ぶ。彼は、ハプスブルグ家を背後から脅かす作戦をとった。
一方、オスマン帝国の支配者・Suleiman(以下、スレイマン大帝とする)は、フランス王国とハプスブルク家の対立をヨーロッパ侵攻の絶好の好機として捉え、フランス王国と同盟を結んだ。

スレイマン大帝の戦略
スレイマン大帝の軍事目標は、ハプスブルク家の本拠地Vienna(ウイーン)占領だった。幾度かのフランソワ1世との外交交渉の結果、スレイマン大帝は、HungaryとEastern Mediterraneanに兵を進めることを決意した。Hungaryは、ハプスブルク家とオスマン帝国との間の緩衝地域であり、オスマン帝国が兵を進める上で地理的に好都合な地域だった。Hungaryは、ハプスブルク家の支配地域の中で、戦略的にもっとも脆弱な地域だった。

スレイマン大帝

スレイマン大帝

Roxelana妃

優れた行政官であり、自ら詩作を行う詩人、スレイマン大帝は、芸術、科学を保護したことでも知られる。トルコにおいて、軍事的な成功が続いた彼の治世は栄光の時代として記憶されている。
ヨーロッパでは「大帝」「マグニフィセント」と呼ばれ、1529年の第一次ウィーン包囲は、失敗するものの西欧人に強い印象を残した。のちにオスマン帝国が軍事的な衰退を続ける中で、栄光のスレイマン1世の時代に立ち返ろうとする主張が繰り返されることになる。

一方で、彼の治世の後半には政争が相次ぎ、特にスレイマン大帝が寵妃Roxelanaを溺愛、女人禁制だったトプカピ宮殿に彼女を居住させたことは、後にハレムの女人が政治へ容喙する端緒を作った。しばしばオスマン帝国の軍事的衰退の原因とされるジャニサリー兵の急速な拡大などの軍事組織の構造変化も、スレイマンの時代に始まったものである。
最愛の妻ヒュッレムの死後、反乱を起こした皇子バヤズィトを1561年に処刑するなど家庭的に暗い晩年を送ったスレイマン大帝は1566年にハンガリー遠征の陣中で没した。遺骸はイスタンブールに運ばれて自身がスィナンに建造させたスレイマニエ・モスクの墓地に葬られ、政争の結果、唯一生き残った皇子セリム2世が即位した。

Tughra
歴代のスルタンが政府の最重要文書に使用したのがTughraと呼ばれる花押で、以下のTughraにはスレイマン大帝とその先代のスルタンの名前が図案化されている。より重要度の低い公文書にはTughraの木版が押印された。スレイマン大帝のTughraはトプカピ宮殿の壁にも装飾されている。


トプカピ宮殿


フェルディナンド

戦いの火蓋を切る前に、スレイマン大帝はHungaryのフェルディナンド国王と交渉を行い、Hungaryがオスマン帝国の属国となり、Vienna侵攻のためにスレイマンの軍隊を無事に通過させるなら戦争は行わないとの条件を示した。
カール5世から援軍が来るものだと思っていたフェルディナンド国王は、スレイマン大帝の圧倒的な軍事力にもかかわらず、この条件を断わった。しかし、ルターの宗教改革(1517年)で足元に火がついたカール5世は、ハンガリーに兵力を割く状態ではなくなっていた。フェルディナンド国王は、単独でスレイマン大帝と戦争しなければならなくなった。

1521年、スレイマン大帝は、Hungaryに侵攻、Belgrade市を包囲した。市の要塞に篭ったハンガリー軍は三週間持ちこたえたが、同年8月29日、陥落した。スレイマン大帝は、Janissary(ジャニサリー兵)を都市の占領部隊として残し、Constantinopleに凱旋した。

宗教改革
ローマカトリックの堕落は目を覆うばかりで、信仰を口実に、多くの蛮行・残虐行為がなされていた。ルター等の宗教改革運動は、カール5世の足を引っ張り、スレイマン大帝への有効な反撃の障害となった。

 

ロードス島攻略
スレイマン大帝は、第二の侵攻として西暦1522年、Rhodes島を攻める。Rhodes島はSt.John(聖ヨハネ騎士団)が守る領土だった。

聖ヨハネ騎士団
後にマルタ騎士団と呼ばれる聖ヨハネ騎士団の起源は、10世紀ごろ聖地エルサレムの巡礼に宿泊所を提供し、病人を治療していたキリスト教の修道会である。彼らは病院騎士団とも呼ばれた。
十字軍遠征を通じて彼らは軍事組織を形成するが、ついにエルサレムを追われ、西へ退却。1453年にビザンチン帝国がオスマン帝国によって減ぼされたあとも、エーゲ海の出入口、ロードス島に踏みとどまってオスマン帝国に反抗を続けた。騎士団は錬度の高い兵士と、高度な航海技術を誇りとしていたが、イスラム国家から見れば、ただの海賊と人殺しの集団だった。

聖ヨハネ騎士団のフィギュア


ロードス島攻防記
塩野七生著 (新潮文庫)
聖ヨハネ騎士団とスレイマン大帝との戦いが、一次史料をもとに書かれている。戦いの始まる前から戦い最中の詳細な模様、そして戦いが終わった後のロードス島と聖ヨハネ騎士団の運命まで描いている。この「ロードス島攻防記」は、「コンスタンティノープルの陥落」、「レパントの海戦」とあわせて、著者の「戦記物三部作」である。

1482年の戦いでは騎士団がオスマン帝国軍を撃退した。

スレイマン大帝は、400隻の船舶と大量の地上部隊をRhodes島の対岸に結集して騎士団と外交交渉を試みたが、Hungaryの時と同様、交渉は拒絶された。聖ヨハネ騎士団は、1482年のオスマン帝国の10万の兵力による攻撃を撃退していたので篭城戦には自信があった。しかし、オスマン帝国の城攻技術は、それ以降の戦いで進歩しており、しかも、28才のスレイマン大帝は城攻めの名人だった。

1522年、約一ヶ月間の砲撃の後、オスマン帝国の部隊はRhodes島に進撃した。戦いは12月まで続いたが、騎士団の損害は膨大で、ヨーロッパ諸国から援軍も来なかったため、騎士団はスレイマン大帝の降伏勧告を受け入れた。スレイマン大帝の条件は、降伏するなら騎士団は5年の間、Rhodes島に残ることができ、財産も没収せず宗教的自由も与えられ、しかも無税とするものであった。当時のヨーロッパの慣習から言えば、きわめて寛大な条件だった。
翌年1523年1月、ジャニサリー兵はRhodes島の要塞に進駐し、戦争は終わった。この結果、オスマン帝国は、Eastern Mediterraneanを事実上支配下に置くことになった。

ハンガリーの滅亡
次の三年間、スレイマン大帝は内政に専念しなければならなかった。国内を組織化しながら、Egyptの反乱を鎮圧するなどの対応に追われた。もちろん内政が整えば、Viennaに兵を進めるつもりだった。
意外にも、1525年、ジャニサリー兵がオスマン帝国内で起こした反乱がVienna侵攻の引き金になった。ジャニサリー兵の収入は戦争による略奪であったから、三年間の平和は彼らの忍耐を越えるものだった。ジャニサリー兵は、Constantinopleの政府施設を襲い、ユダヤ人街を略奪し、スレイマン大帝の住居にも侵入、スレイマン大帝が三人のジャニサリー兵を殺害する事態に発展した。スレイマン大帝は、ジャニサリー兵達に戦争を約束し、反乱は一応鎮まった。
同じ年、同盟関係にあったフランシス国王が、1525年のパビアの戦いでハプスブルグ家の捕虜になった。フランシス国王は獄中から密使を出して、スレイマンに戦争を呼びかけた。
フランス王国が滅びてハプスブルグ家に権力が集中するなら、オスマン帝国がヨーロッパに侵攻する機会は永遠に失われる。そこでスレイマン大帝は、再びHungaryに侵攻する決意を固めた。当時、Hungaryは、10歳のLouis国王を擁立した国王派と、TransylvaniaのZapolya公との勢力争いの真っ最中にあったのである。

Hungaryに侵攻したオスマン帝国軍は、Louis国王の軍隊と遭遇することなく国内を進んだ。驚くべきことに、Hungary軍は内部対立によって統一した防衛線を作ることができず、防衛地点を放棄していたのであった。しかも、領内の農民は、オスマン帝国軍を、ハンガリーの圧制から開放する解放軍として迎え入れた。

Louis国王の側近は、オスマン帝国軍の補給が伸びきった時に反撃することを提案したが、Louis国王はZapolya公の援軍なしで勝利することに執着し、1526年8月30日、25,000のハンガリーLouis軍は100.000のオスマン帝国軍とモハチで対決した。
戦いは熾烈を極め、Louis国王は砲撃で負傷し、ハンガリーの騎兵もまたスレイマン大帝の目前まで迫った。90分におよぶ戦いでオスマン帝国軍は勝利し、このモハチでの戦いがその後の400年間のHungaryの運命を決めた。Hungary中央部を支配したスレイマン大帝は9月10日に首都Budaを占領、これによってすべての抵抗は壊滅した。これ以降、1918年までHungaryは他国に支配されることになり、オスマン帝国は、Austria大公国と国境を接することになった。

スレイマン大帝がHungaryから兵を引くと、AustriaのフェルディナンドとZapolyaがHungaryの宗主権を争い、内戦になった。地元貴族がフェルディナンドを支持したため、戦いはZapolyaが負けたが、Zapolyaはスレイマン大帝に特使を送り、人口の10%をオスマン帝国に進呈すること、オスマン帝国がAustriaに侵攻する時は通過を妨害しないこと、毎年貢物を送ることを条件に、フェルディナンドの退位を求めた。スレイマン大帝はこれを受け入れ、ハンガリー王位にZapolyaを推し、自らハンガリーに進軍した。

第一次ウィーン包囲
マドリッドにいたチャールズ5世は、依然として宗教改革との争いに忙殺され、Viennaに援軍を送ることができなかった。チャールズ5世は、Viennaの防衛をフェルディナンドに任せ、フェルディナンドがZapolyaと和睦して、連携してオスマン帝国からViennaを守ることを期待したが、Zapolyaが一切の協力を拒んだため、フェルディナンドは単独でViennaを守らなければならなくなった。

1529年5月10日、スレイマン大帝指揮の数万の軍隊がConstantinopleを出発した。大雨により進軍は遅れ、スレイマン大帝らがBelgradeに到着したときには7月になっていた。オスマン帝国軍はBudaを再び包囲、6日間で攻略するとBudaの支配をZapolyaに任せ、Austriaへ進撃した。
9月27日、Viennaに到着したスレイマン大帝の兵力は12万を越えていた。オスマン帝国軍の巨砲は悪天候のために到着していなかったが、それでも大砲300門がウィーンを睨んでいた。対するハプスブルク側の兵力は約2万、大砲は72門にすぎなかった。しかし、オスマン帝国軍の到着の遅れによって、Viennaの守備は万全の体勢を整えることが出来ていた。婦女子はViennaから脱出しており、市内には食料も十分に蓄えられていた。

戦いの前に、いつものようにスレイマン大帝は降伏勧告を行ったが、Vienna側は当然のように拒絶した。オスマン帝国軍の小火器や弓矢は正確で、Vienna側は城壁の外に姿をあらわすことは不可能なのはもちろん、市内の通りですら安全に歩けなかった。それでも、オスマン帝国の巨砲が到着していないためウィーンの城壁が破られることはなかった。
一進一退の熾烈な戦いが続く中、オスマン帝国軍の弾薬と食料が不足し始め、冬の到来とともに雪まで降り始めたため、10月14日、オスマン帝国軍は退却した。
その後もスレイマン大帝は、ハプスブルグ家に戦いを挑むが、Viennaの戦いは、スレイマン大帝の生涯の中で、ターニングポイントであり、その後、オスマン帝国がヨーロッパ諸国に大きな勝利を収めることはなかった。スレイマンは1566年に死亡した。


スレイマン大帝が築いた大帝国(オレンジ)。濃い赤が1300年のオスマン帝国。

(後編に続く)