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オスマン帝国 (この記事はS&Tの翻訳とは微妙に異なります。付録ゲーム「Ottomans」のユニットやマップに登場する人物、地名は英語のままにしています。) |
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フランス王国・ハプスブルク家・オスマン帝国 三者の思惑
当時のヨーロッパを分断する二大勢力は、フランス王フランソワ1世とオーストリアのハプスブルク家・カール5世だった。 |
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スレイマン大帝の戦略
戦いの火蓋を切る前に、スレイマン大帝はHungaryのフェルディナンド国王と交渉を行い、Hungaryがオスマン帝国の属国となり、Vienna侵攻のためにスレイマンの軍隊を無事に通過させるなら戦争は行わないとの条件を示した。 1521年、スレイマン大帝は、Hungaryに侵攻、Belgrade市を包囲した。市の要塞に篭ったハンガリー軍は三週間持ちこたえたが、同年8月29日、陥落した。スレイマン大帝は、Janissary(ジャニサリー兵)を都市の占領部隊として残し、Constantinopleに凱旋した。
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ロードス島攻略
スレイマン大帝は、400隻の船舶と大量の地上部隊をRhodes島の対岸に結集して騎士団と外交交渉を試みたが、Hungaryの時と同様、交渉は拒絶された。聖ヨハネ騎士団は、1482年のオスマン帝国の10万の兵力による攻撃を撃退していたので篭城戦には自信があった。しかし、オスマン帝国の城攻技術は、それ以降の戦いで進歩しており、しかも、28才のスレイマン大帝は城攻めの名人だった。 1522年、約一ヶ月間の砲撃の後、オスマン帝国の部隊はRhodes島に進撃した。戦いは12月まで続いたが、騎士団の損害は膨大で、ヨーロッパ諸国から援軍も来なかったため、騎士団はスレイマン大帝の降伏勧告を受け入れた。スレイマン大帝の条件は、降伏するなら騎士団は5年の間、Rhodes島に残ることができ、財産も没収せず宗教的自由も与えられ、しかも無税とするものであった。当時のヨーロッパの慣習から言えば、きわめて寛大な条件だった。 |
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ハンガリーの滅亡 Hungaryに侵攻したオスマン帝国軍は、Louis国王の軍隊と遭遇することなく国内を進んだ。驚くべきことに、Hungary軍は内部対立によって統一した防衛線を作ることができず、防衛地点を放棄していたのであった。しかも、領内の農民は、オスマン帝国軍を、ハンガリーの圧制から開放する解放軍として迎え入れた。 Louis国王の側近は、オスマン帝国軍の補給が伸びきった時に反撃することを提案したが、Louis国王はZapolya公の援軍なしで勝利することに執着し、1526年8月30日、25,000のハンガリーLouis軍は100.000のオスマン帝国軍とモハチで対決した。 スレイマン大帝がHungaryから兵を引くと、AustriaのフェルディナンドとZapolyaがHungaryの宗主権を争い、内戦になった。地元貴族がフェルディナンドを支持したため、戦いはZapolyaが負けたが、Zapolyaはスレイマン大帝に特使を送り、人口の10%をオスマン帝国に進呈すること、オスマン帝国がAustriaに侵攻する時は通過を妨害しないこと、毎年貢物を送ることを条件に、フェルディナンドの退位を求めた。スレイマン大帝はこれを受け入れ、ハンガリー王位にZapolyaを推し、自らハンガリーに進軍した。 |
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第一次ウィーン包囲 1529年5月10日、スレイマン大帝指揮の数万の軍隊がConstantinopleを出発した。大雨により進軍は遅れ、スレイマン大帝らがBelgradeに到着したときには7月になっていた。オスマン帝国軍はBudaを再び包囲、6日間で攻略するとBudaの支配をZapolyaに任せ、Austriaへ進撃した。 戦いの前に、いつものようにスレイマン大帝は降伏勧告を行ったが、Vienna側は当然のように拒絶した。オスマン帝国軍の小火器や弓矢は正確で、Vienna側は城壁の外に姿をあらわすことは不可能なのはもちろん、市内の通りですら安全に歩けなかった。それでも、オスマン帝国の巨砲が到着していないためウィーンの城壁が破られることはなかった。
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(後編に続く) |