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オスマン帝国 スレイマンの死後、オスマン帝国は、政治の混乱から国家の危機が進んだ。大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメトは、オスマン帝国の版図を奪還した。無敵を誇ったオスマン帝国軍の城攻技術も、ウイーンの防衛技術の前には従来のような成果をあげることができなかった。 |
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年表
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政治の混乱
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第二次ウィーン包囲 1683年5月13日、ムスタファ大宰相は、オスマン帝国の歴史上最大の軍勢20〜50万人を動員し、西へ進んだ。この軍勢の中には、職人や賄い、商人なども含まれるから、実際の戦闘員は9〜10万人と推定される。 9月7日、Polandのヤン3世とロートリンゲン侯カールの指揮するドイツ・ポーランド連合軍は、ようやくViennaの9キロ北側のWiener Wald(山地)に到達した。ムスタファは、軍勢の主力を都市の包囲に用いており、Wiener Waldは見張り程度の兵しか置いていなかったため、連合軍は容易にWiener Waldを占領することができた。連合軍が山頂で花火を上げるとVienna市内から歓声が上がった。
Viennaの陥落を目前にしていたムスタファは、Vienna北方にごく少数の兵しか展開していなかった。事実、Viennaはあと一回の攻勢で陥落しそうだった。一方、連合軍が占領したWiener
WaldはVienna周辺を見下ろす絶好の地であり、オスマン帝国軍の巨大なキャンプが無防備でさらされている様子が一望できた。ヤン3世は、ムスタファの布陣を見下ろして次のように言った。 翌日の夜明けとともに、総勢2万人のドイツ・ポーランド連合軍は丘陵を駆け下り、オスマン帝国軍を背後から襲った。それは「山がなだれを打ち、あらゆるものを押し倒して来る」ようだったという。
Belgradeまで撤退したオスマン帝国軍はムスタファ大宰相の首をはね、Constantinopleのスルタンに届けた。軍事立国・オスマン帝国において敗北は死によって贖う罪だった。 |
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その後 第二次ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国にとって歴史的ターニングポイントとなった。その後16年間続く戦争の中で1686年、ハプスブルク家はBudaからオスマン帝国軍を駆逐し、Hungaryはオスマン帝国の150年の支配に幕を下ろした。VenetiansはPeloponneseとDalmatiaに侵攻、Transylvaniaを奪った。 1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、HungaryとTransylvanaはAustriaのハプスブルク家のものとなり、Venetianは、Dalmatia、Albaniaを維持した。さらに1718年にはパサロヴィッツ条約が結ばれ、オスマン帝国はBelgradeも失う。 |
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ありし日のオスマン帝国の首都、コンスタンチノープル |