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オスマン帝国
ウオーゲーマーのための「イスラムの聖戦」解説 (後編)

スレイマンの死後、オスマン帝国は、政治の混乱から国家の危機が進んだ。大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメトは、オスマン帝国の版図を奪還した。無敵を誇ったオスマン帝国軍の城攻技術も、ウイーンの防衛技術の前には従来のような成果をあげることができなかった。

年表

オスマン帝国の戦争史 ヨーロッパの出来事
1453年 ビザンチン帝国を滅す 1445年 グーテンベルグが活版印刷機を発明。
1480年 Rhodes島攻略(第一回親征) 1500年 ミケランジェロがダビデを制作。
1514〜1517年 Iran、Egyptを征服 1503年 ダビンチがパリで「モナリザ」を描いた。
1521年 Belgrade遠征 1517年 ルターの宗教改革。
1522 年 Rhodes島攻略(第二回親征)    
1526年 モハチの戦い    
1529年 第一次ウィーン包囲 1542年 ローマに異端審問所が作られる。
1565年 Malta島攻略失敗 1543年 コペルニクスが地動説を提唱。
1571年 レパントの海戦    
1573年 Cyprus島占領    
    1603年 シェイクスピアが「ハムレット」を書く。
    1604年 ガリレオがピサの斜塔で落下の法則の実験。
1669年 Ctete島を占領 1639年 レンブラントが、「夜警」の制作を始めた。
1683年 第二次ウィーン包囲 1687年 ニュートンが万有力学を発表。

 

政治の混乱
スレイマン大帝の時代、三大陸にまたがる覇権を形成したオスマン帝国は、スレイマンの死後、政治の混乱から国家の危機が進んだ。政府高官による汚職や腐敗、暗殺で宰相は頻繁に交代し、常備歩兵軍の拡大と連年の戦役による軍事費の増大が財政を苦しめた。
スレイマンの後継者は悪化した財政を増税でまかなったが、新大陸の銀の流入によって物価が高騰、さらに、ヨーロッパで始まった「大航海時代」によって通商のルートが変わり、オスマン帝国の世界経済上の優位が失われた。
経済が悪化すると、ジャニサリー兵の維持が困難になり、農奴を兵士に増やした結果、高い忠誠心と錬度、技術を誇るジャニサリー兵制度は衰退して行った。
しかも16世紀になると、領土は以前のままであるのにオスマン帝国の人口が二倍に増えていた。都市周辺に溢れた失業者対策のため、これらの人々を軍隊に入れた結果、軍は隣接する領土を略奪する組織に変貌した。
政治組織も変化し、政府高官が世襲されることが多くなった。従来、政府高官は、低階級から選ばれ、それゆえに支配層と低階級をつなぐパイプとなり、反逆の危険を回避する政治メカニズムになっていたが、政府高官は貴族化し、宮廷の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返すようになると、オスマン帝国の力は減退した。

戦争マシン・オスマン帝国
オスマン帝国は軍事立国だった。すべての領主は将軍であり、警察官はジャニサリー兵、給仕は弓を習い、道路は軍事目的でつくられた。精神障害者でさえ、輜重大隊などに組み入れられていた。ひとたび戦争がはじまると、「まるで友人の結婚式にでも集まるような速さで」兵力が集まる、とGeorgius de Hunariaは書き残している。「彼らは、家にいて年老いた女のそばにいるより戦場で死ぬ方が何倍も幸せ、だと言う。」
戦争は何ヶ月も前から準備され、周辺の領土には先遣隊が送られ、武器はコンスタンチノープル郊外の武器庫に納められた。進軍する兵士はカラフルな軍服に彩られ、軍楽隊を伴い、砲兵や工兵、荷物や弾薬を運ぶラクダ、ラバ、羊、牛、橋梁用の木材と鎖、その他、兵士の衣食住を支える従者の大部隊がそれに続いた。

ジャニサリー兵

ジャニサリー 兵
(フィギュア)
親衛歩兵部隊であるジャニサリー兵は、1365年にスルタンの護衛として始まり、15世紀にはエリート部隊として戦場で活躍した。壮健な身体をもつ、強制的に徴用したギリシア正教徒の若者から成るジャニサリー兵は、結婚も飲酒も許されず、厳しい訓練と軍律によって鍛え上げられ、イスラムの教義が叩き込まれていた。16世紀のヨーロッパにこのような軍隊はなく、戦場において彼らはもっとも恐れられた。最盛期の彼らは、スルタンにその年の戦争を約束させる程の勢力を持ち、不満がある場合は、コンスタンチノープルの建物に放火する習慣を持っていた。

スパヒス兵
近衛槍騎兵部隊。コンスタンチノープルに常駐するエリート部隊と、準封建制度で動員する部隊とがある。彼らは馬を全速力で疾走させながら、馬上で体を回転して標的を射抜くことができた。軍律は厳格で、不服従は厳しく罰せられた。たとえば、農作物の上を走った場合、旗手と馬の両方が死刑になった。

Bashi-bazouk
非正規兵と傭兵の集まり。ギリシャ、トルコ、ドイツ、イタリア、ハンガリーなどを裏切った者が多かった。凶暴な集団だが軍規が弱く、報酬は略奪によって得られたため、反撃にあうと戦意が容易に減退した。オスマン帝国は、非正規兵の騎馬兵をよく使い、彼らはakinjisと呼ばれた。


CaliphateのMamluke
(ソリッドレリーフ)

戦術と戦略
オスマン帝国の戦術は、一般的に複雑なものであった。戦場において、最初に軽騎兵が敵軍を兆発し、ジャニサリー兵と砲兵が防衛している自軍の防衛線に誘い込む。ジャニサリー兵がひとたび敵兵を白兵戦でくぎ付けにすると、そこにスパヒス兵が襲いかかった。この戦術は、しばしばヨーロッパの騎兵戦法に撃退されたが、狡猾さを欠く敵には有効だった。
軍事科学を重視したオスマン帝国は、ルネッサンス時代の弾道学も一新した。歴代のスルタンは攻城技術の権威で、優秀な兵器技術者を持っていた。ハンガリーの鋳造職人を雇い、ヨーロッパ諸国がもっていない大きな大砲を鋳造していた。一番大きな大砲は、長さ8メートル、直径2.5メートルで、移動に30匹の牛と700人の人夫を必要としたと言われる。この大砲は1453年のコンスタンチノープルの城攻戦の要となり、それ以降、オスマン帝国軍は、戦場において常に最良の大砲を用意した。
オスマン帝国はまた、優秀な諜報組織を持ち、敵の弱点を十分に研究し利用した。戦役の後はコンバットレポートが作成された。


このような衰退の中、1571年のレパントの海戦で、オスマン帝国はカール5世率いる神聖ローマ帝国に敗北、ヴェネツィア共和国との1656年の戦争は、Constantinopleの海上封鎖を招き、物流が滞った首都は暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメトは全権を掌握して事態を収拾し、その死後は息子キョプリュリュ・アフメトが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国力を立てなおした。2代続いたキョプリュリュ家の政権はオスマン帝国の官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。この時代、オスマン帝国はCrete島やウクライナにまで領土を拡大し、スレイマン時代に勝る覇権を回復した。(S&T#222の表紙はレパントの海戦)

第二次ウィーン包囲
その異形から「黒いムスタファ」と呼ばれた、キョプリュリュ・メフメトの娘婿カラ・ムスタファは、経験豊かで聡明な大宰相と言われる。1682年にハプスブルグ家とのバスボア条約が失効すると、ムスタファは、スレイマン大帝やキョプリュリュ家の果たせなかった国家事業、Vienna占領に着手した。

1683年5月13日、ムスタファ大宰相は、オスマン帝国の歴史上最大の軍勢20〜50万人を動員し、西へ進んだ。この軍勢の中には、職人や賄い、商人なども含まれるから、実際の戦闘員は9〜10万人と推定される。
Austria皇帝レオポルト1世は、スタンバーグ公にViennaの防衛を委任、自らはGermanyに撤退し、兵を集めた。オスマン帝国への復讐に燃えるPolandのヤン3世はレオポルト1世に援軍を約束した。
ムスタファは、途中の中都市を迂回しながら、Viennaへと兵を進めた。この動きは、中都市でオスマン帝国軍を止めてVienna防衛の時間をかせぐというレオポルド1世の作戦を裏切るものであったが、スタンバーグ公は急速度でViennaの要塞化を進め、7月13日にムスタファの軍勢が到達した時には、Viennaは完璧な要塞都市になっていた。
オスマン帝国軍の巨砲はすでにウィーンの城壁には有効でなくなっていた。ムスタファは直ちに攻撃をしかけず、地下道を掘って城壁を爆破する作戦をとった。この地下道攻撃に対し、ウィーン側は対抗する地下道を掘り、伏兵をぶつけて防衛した。
約一ヶ月戦いが続き、8月12日オスマン帝国軍はようやく城壁に穴を開けたが、突入した兵士はスタンバーグ公の反撃に押し戻された。9月4日、城壁は再び破られるが、スタンバーグ公は二時間の戦闘でオスマン帝国軍を押し返し、オスマン側に多大の死傷者を出した。しかし、スタンバーグ側もまたこの戦闘で大きな損害を被り、残存する兵力は4000人になっていた。レオポルト1世の援軍が来ないならば、Viennaの陥落は間違いなかった。

9月7日、Polandのヤン3世とロートリンゲン侯カールの指揮するドイツ・ポーランド連合軍は、ようやくViennaの9キロ北側のWiener Wald(山地)に到達した。ムスタファは、軍勢の主力を都市の包囲に用いており、Wiener Waldは見張り程度の兵しか置いていなかったため、連合軍は容易にWiener Waldを占領することができた。連合軍が山頂で花火を上げるとVienna市内から歓声が上がった。


Wiener WaldからViennaを見下ろす。(現代)

Viennaの陥落を目前にしていたムスタファは、Vienna北方にごく少数の兵しか展開していなかった。事実、Viennaはあと一回の攻勢で陥落しそうだった。一方、連合軍が占領したWiener WaldはVienna周辺を見下ろす絶好の地であり、オスマン帝国軍の巨大なキャンプが無防備でさらされている様子が一望できた。ヤン3世は、ムスタファの布陣を見下ろして次のように言った。
「ムスタファは戦争について何も知らない。我々が蹴散らす。」

翌日の夜明けとともに、総勢2万人のドイツ・ポーランド連合軍は丘陵を駆け下り、オスマン帝国軍を背後から襲った。それは「山がなだれを打ち、あらゆるものを押し倒して来る」ようだったという。
Vienna近郊の平野部で両軍は激しく戦闘、午後1時に平野部のオスマン帝国軍が壊滅すると、自然発生的な停戦になった。しかし、午後3時20分にドイツ・ポーランド連合軍は攻撃を再開、午後5時、オスマン帝国軍はViennaの包囲を解いて壊走した。オスマン軍は大砲や牛のみならず、カーペット、毛皮、オウム、コーヒー豆などの数々の珍しい物を戦場に残した。

ウィーン包囲がヨーロッパにもたらした文化

コーヒー
コーヒーで、ウイーン籠城戦の最中重包囲網を突破し救援要請を敢行したトルコ通のコルシッキーが、大量に残されたコーヒー豆の山を払い下げた。これがウィーン名物カフェ・ハウスの始まり。
クロワッサン
勝利に喜んだウィーン市民はトルコのシンボルである「三日月」の形をしたパンを焼いた。それがクロワッサンの起源である。(「クレセント」とは「三日月」の意味。)
一説には、オスマン帝国軍が地下道を掘って城壁突破を試みている時、地下の作業場にいたパン職人がこの音を聞きつけ、それによりオスマン帝国軍を撃退する契機が生まれた、と言われる。その功績を評し、パン職人はスペシャリテのパンを作って一番高く売ることを許されたのである。この時、そのパン職人はオスマン帝国の軍旗の三日月の形のパンを作った、と言われているが、真偽は不明。
トルコ行進曲
ブラスバンドの起源とも言われるオスマン帝国の軍楽隊は、文献で確認できる最古の軍楽隊である。モーツァルトの「後宮からの誘拐」、ベートーヴェンの第九の終楽章にもトルコ行進曲が用いらるなど、その後のヨーロッパ音楽に大きな影響を残した。

Belgradeまで撤退したオスマン帝国軍はムスタファ大宰相の首をはね、Constantinopleのスルタンに届けた。軍事立国・オスマン帝国において敗北は死によって贖う罪だった。

その後
第二次ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国にとって歴史的ターニングポイントとなった。その後16年間続く戦争の中で1686年、ハプスブルク家はBudaからオスマン帝国軍を駆逐し、Hungaryはオスマン帝国の150年の支配に幕を下ろした。VenetiansはPeloponneseとDalmatiaに侵攻、Transylvaniaを奪った。
1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、HungaryとTransylvanaはAustriaのハプスブルク家のものとなり、Venetianは、Dalmatia、Albaniaを維持した。さらに1718年にはパサロヴィッツ条約が結ばれ、オスマン帝国はBelgradeも失う。

ありし日のオスマン帝国の首都、コンスタンチノープル