Painting as a Pastime
画家としてのウィンストン・チャーチル

(Four Seasons Magazine、www.humanitiesweb.org、www.winstonchurchill.orgなどから)

20世紀を代表する政治家のひとり、ウィンストン・チャーチルは日曜画家でもあり、過去におけるもっとも優れたアマチュア画家と評されることもある。彼が絵筆を執ったのは1915年、40歳の時で、士官学校卒のチャーチルはそれまで専門的な絵画の教育を受けたことはなかった。その後、チャーチルは50年間、休むことなく周囲の人物や景色を描き続け、500点以上の作品を残している。
昨年出版された「Sir Winston Churchill: His Life and His Paintings」は、チャーチルの義理の孫娘でありチャーチル財団のディレクター・Minnie S. Churchillらが編集した画集で、チャーチルが1930年以降に描いた絵画のほとんどを収録している。

ガリポリの戦い
チャーチルが油絵を描きはじめた1915年は、海相の彼が推進していたガリポリの戦いにイギリス軍が敗れて内閣を辞任しなければならなかった失意の年である。チャーチルの妻も絵を描くことを強く勧めており、彼女は伝記作家Sir Martin Gilbertに「絵を描いてなかったら心臓病でとっくに死んでいたでしょう、と夫に語ったことがあります。あの戦争があったので。」と述べている。

美術に「大胆さ」を好むチャーチルの画風は、実際には慎み深いもので、彼は尊敬する周囲のアーティストに常にアドバイスを求めていた。恐らく、チャーチルの絵画にもっとも強く影響を与えたのは、ドガの門下生Walter Sickertだろう。フランスとイギリスの印象派を語る上で欠かせないSickertは、しばしばチャーチルと肩を並べてキャンバスに向かい、二人の間には絵画に関するたくさんの往復書簡が残されている。後で絵を完成させる時のために現地で写真を撮っておくことや、ランタンの明かりで写真をキャンバスに投影する方法もSickertがチャーチルに教えたことだった。また、隣人の画家、Sir John Laveryからも彼は油絵を教わっている。政争に忙殺されていたチャーチルにとって、彼らの専門知識は天の恵みに等しいものだったに違いない。


偽名でデビュー
チャーチル本人は、絵を描く目的を「まったくの楽しみ、気晴らし」と語り、自著「Painting as a Pastime」の中で、「肉体を酷使せずに精神が溶け込んでゆくものを、私は作画以外に知らない。どんな心配や将来の脅威があっても、いったん絵を描き始めたなら、それらは心から消えてゆく。精神の光は、本来あるべきように、作画に集中する。」と書いている。彼の作風は印象派を踏破したものだが、生涯を通じてスタイルはどんどん変わっている。多くの画家がひとつのスタイルに固執するのに対し、チャーチルの絵は実験的であり、さまざまな様式で日没や景色を描いている点に特徴がある。

1920年、チャーチルはCharles Morinの偽名で5点の作品をパリに送り、それぞれが£30で売れた。1925年には別の偽名でロンドンのSunderland Houseの展覧会に「Chartwellの冬の光」を出品すると金賞を受賞し、「アマチュア画家にしては旨過ぎる」と評され、後にその作品がチャーチルの絵であることが知られると画壇から暖かい歓迎を受けた。それ以降、彼はアマチュア画家を政治的キャラクターに用いるようになった。

ルーズベルトとの会談
今日残されている作品のほとんどは1930年代に描かれたものである。チャーチルは遊説先にはあたりまえのように画材道具を持って行き、描きたい景色があれば筆を執らずに去ることはなかったと言われる。旅先での時間は限られていたので、絵の多くはChartwellのアトリエで完成された。フランス外人部隊の出身で当時チャーチルのボディガードをしていたEdmund Murray軍曹は、しばしばチャーチルから絵のアドバイスを求められたという。Murray軍曹もアマチュア画家だった。

チャーチルは1940〜45年の間、絵を描く暇がほとんどなかった。この間に彼が完成させることのできた作品は1943年の「The Tower of Katoubia Mosque」一点だけで、ルーズベルト大統領とカサブランカで10日間の会談を行った時のものである。

米英会談が終わって、ルーズベルト大統領が飛行機に乗ってアメリカに戻る直前、一国のリーダーが海外を移動するにはきわめて危険だったこの時期、チャーチルはルーズベルトに「2〜3日、私に時間をください。サハラ砂漠のパリ、マラケシにあなたをお連れしたいのです。雪に覆われたアトラス山脈に沈む夕日を一緒に見ましょう。」と言った。ルーズベルト大統領はほとんどすぐにこれを快諾し、歴史上もっとも奇怪なバカンスが挙行された。カサブランカからマラケシまでの5時間の道のりが何千ものGIとイギリス兵によって警備され、途中二人はピクニックさえ楽しんだのである。
マラケシに着くと、ルーズベルトは後にアメリカ領事館となるVilla Taylorの屋上に椅子を運び、二人のリーダーは並んでアトラス山脈に沈む夕日を眺めた。ルーズベルトは翌朝出発したが、チャーチルはそこに2日間滞在して絵を描き、完成した作品はルーズベルト大統領に送られた。この絵は今でもルーズベルト家の所蔵品である。

The Tower of Katoubia Mosque