コンピュータとウォーゲームの歴史
バベッジからダニガンまで (S&T#215)

D. Ezra Sidran

二十世紀の最大の事件とは、言うまでもなく、二度繰り返された世界戦争である。戦争は1918年にいったん終結したかに見えたが、1937年(日本が中国に侵攻)に再燃し、1945年まで燃えた。芸術、文学、政治、科学などすべての分野がこれらの戦争の影響を受け、あるいは影響を及ぼしている。その中で、戦争において不可欠な役割を果たし戦争の結果さえも変えたのは、ウォーゲームとコンピュータである。

ウォーゲーム
すべての主要国は、第一次大戦以前からウォーゲームを士官訓練で採用していた。イギリスでは、総司令官ケンブリッジ公爵が1883年10月にウォーゲームの研究を軍に命じている。イギリス軍参謀が1905年に行ったウォーゲームは、ドイツ軍がベルギーの中立地域を抜けてフランス国内に大規模な機動戦を仕掛けるものだったが、これは実際のシュリーフェンプランを9年半前にシュミレーションしたものだった。
同様に、ドイツ参謀部も第一次大戦前から「kriegsspiel (ウォーゲーム)」をすべての階級の士官のトレーニングで使用し、戦闘原理をテストしていた。ロシアは、どの国よりも早くウォーゲームを取り入れたためか、一度頓挫している。1870年代に発行されたロシア戦時局命令第28号および第71号は、ウォーゲームを煩雑で不定見であると断じている。ロシア戦時局は1903年に、「監督者の能力の欠如により、ゲームの利点を喚起できない。」「有能な監督者と有益な研究が欠如している。」とレポートしていた。

実際、この時代のウォーゲームは審判官の判断に多くを依存していた。 「Dungeons & Dragons」のような洗練されたゲームマスター・システムがなかったため、監督者や審判が気まぐれを起こした場合、ゲームの結果は壊滅的となったのである。1942年、日本海軍がミッドウェー海戦を想定したウォーゲームを行った時、奥宮参謀が振ったダイスの目を宇垣纒中将が修正している。連合軍の空爆撃を試みた奥宮のダイスによれば、9ヒットで空母赤城と加賀が沈没する判定だったが、宇垣中将は、日本の船艦は簡単には沈まないとしてこの判定を無効とした。数ヵ月後、無効にした判定が現実になったのは史実の通りである。
アメリカ合衆国では、米西戦争後の海軍大学においてマッカーティ・リトル大将 (McCarty Little, 1878-1960)の推進で海戦ゲームが研究されている。この研究に注目した海軍次官セオドア・ルーズベルト (Theodore Roosevelt, 1858-1919)は1897年、リトル大将に、「貴官のBigな戦略ゲームを一度拝見したい」と書簡を送っている。当時の海戦ゲームは、ホールの床いっぱいに艦船ユニットを並べて行われていた。

 

階差機関

機械式コンピュータの導入
コンピュータは第一次大戦以前から考案されていたが、当初は概念だけのものだった。コンピュータの父と呼ばれるチャールズ・バベッジ(Charles Babbage, 1791- 1871)が考えた「解析エンジン」は、滑車、歯車、シャフト、ダイアルで構成された機械で、蒸気エンジンで駆動するプログラム可能なマシンだった。彼は「解析エンジン」を完成させることなく1871年に逝去しているが、スウェーデン人イェオリ・シュウツ (Georg Scheutz 1785 - 1873)が解析エンジンの縮小バージョンである「階差エンジン2」を完成させ、イギリス政府は人口統計の予測にこの機械を用いた。
一方アメリカ統計局は、1890年にヘルマン・ホレリス(Herman Hollerith, 1861 - 1929)の発明した機械式自動集計器によって、6週間という記録的な速さで国勢調査を完了している。ホレリスのTabulating Machine社は、Computer Tablating & Recording社に統合され、やがてIBM社となる。

ウォーゲームとコンピュータ
機械駆動式のコンピュータが最初に軍事使用されたのは弾道計算で、戦艦ビスマルクには砲撃や魚雷の弾道を計算する歯車と車軸を組み合わせて出来た計算機が搭載されていた。
興味深い事実は、各国とも独自のウォーゲームで世界戦争を研究しながら、機械計算機を用いてウォーゲームの計算を行うことを思いつかなかったことである。結果的に、ウォーゲームの戦闘結果は極度に単純化された方法で判定された。たとえば米海軍の海戦ゲームでは、二組の艦船が戦力比が2対1で戦った場合は1の側をすべて除去、戦力比が3対2の場合、2の側の艦船を半分除去、4対3の場合、3の方の艦船はすべて除去されるが4の側はゲームの終了まで移動ができなくなる、などの簡易なルールによって戦闘結果が判定されていた。

コロッサス

エニグマ解読機「コロッサス」
第二次大戦中のイギリスのブレッチリーパークでの発明は、コンピュータの軍事使用に新たなページを加えた。アラン・チューリング(Alan Turing, 1912-1954)が、ドイツの最機密暗号エニグマを解読する機械「コロッサス」を完成させたのである。エニグマ暗号は数字の羅列で、ギアと車軸から成るエニグマ暗号機を通すことで平文に置き換えられていた。
「コロッサス」は世界初の電子式コンピュータで、歯車の代わりに真空管を使っていた。1943年12月までにエニグマ暗号はイギリスで解読できるようになり、ドイツ側が解読するよりも早くチャーチルとルーズベルトが内容を知ることができた。エニグマ解読機がどれだけ第二次大戦の結果を変えたかは、強調しすぎてもしきれないほどである。チューリングの電子式コンピュータは、目的に応じて再プログラムができた。

My comments:
アラン・チューリング

1912年、ロンドン生まれの天才数学者。コンピュータの理論的な基礎となる彼の論文「On Computable Numbers」は1937年、24才の若さで発表したものだった。エニグマ解読のプロジェクトの中では世界初の電子コンピュータを開発し、1950年に発表した論文「Computing Machinery and Intelligence」は人工知能に関するもので、コンピュータ開発のさらに先を行く内容だった。
その後、スパイ容疑をかけられ、1954年マンチェスターの自宅で自殺。しかし、彼の業績は高く評価され、アメリカ計算機学会 ( Association for Computing Machinery) のチューリング賞は、コンピュータ科学で最も活躍した人々に毎年授与されている。


チェック・メイト

左がGary Kasparov

1951年にチューリングが「電子コンピュータのゲームへの応用」を著して間もなく、マンチェスター大学のPrinz博士が最初のチェスコンピュータを発表し、それから開発者の間で人間に勝てるチェスプログラムを開発する競争が始まった。1958年の「Scientific American」誌には、どれだけ早いコンピュータを用いてもコンピュータがチェスで人間に勝つことはない、と書かれているが、1990年、IBMは1秒間に2億通りの可能性を計算し40手先まで読むコンピュータ、RS/6000 SP、通称「ディープ・ブルー」を登場させ、当時のチェス世界チャンピオン、ゲイリー・カスパロフ (Gary Kasparov)に勝負を挑んだ。「ディープ・ブルー」は、一回目はカスパロフに勝つことができなかったが、二戦目で勝利した。

チャールズ・ロバーツ
1950年代はコンピュータが一般大衆に知られるようになった時代だが、ウォーゲームもこの時代に商用版として一般社会に登場している。そして、商用版ウォーゲームの発展においてもっとも重要な人物は、チャールズ・ロバーツ(Charles Swan Roberts)であろう。

商用版ウォーゲームのはじまりは、1950年代にロバーツがデザインしたTacticsである。このゲームは1958年にTactics IIにバージョンアップされ、ロバーツは自分で作った会社「Avalon Hill」から続々とウォーゲームを市場に送り出した。Games Reserch社のDiplomacyを除いて、この時代の商用版ウォーゲームはすべてAvalon Hillから発売されたものである。すべてと言い切れるのは、ウォーゲームを民間ゲームとして販売すること自体がロバーツ独自のアイデアだったからだ。現在中高年になっている人が最初にプレイしたウォーゲームは彼のデザインによるものか、Avalon Hillで開発されたものである。

ロバーツがウォーゲームを社会に広めた功績は計り知れないものがあるが、ゲームデザインを進化させた功績もまた大きい。1958年のGettysburgは、初の正確な歴史リサーチに基づくウォーゲームだった。1961年にはD-DayWaterlooが相次いで販売され、翌年に発売されたBismarckは、プレーヤーがお互いのユニットの移動を紙に記録するゲームに発展していた。その翌年のStarlingradは世界初の東部戦線のゲームで、1964年のAfrika Korpsでは補給ユニットと補給システムが導入されていた。同年のMidwayは、最初に航空母艦を扱ったゲームである。(日本の宇垣中将はどう思うだろう?)1964年のAvalonHillの販売総数は62,000個に達していた。

ボード・ウォーゲームの黄金期
ジェームズ・ダニガンがAvalon Hillのために1914をデザインしたのはその三年後である。このゲームではたくさんのオプションルールとシナリオで政治状況を表現していた。1970年の商用版ウォーゲームの総流通の95%はAvalon Hill製品であり、残りの5%をSPIやGamescienceが占めていた。信頼できる統計によれば、1972年のウォーゲームの総流通数は337,280個である。
時を同じくして、イリノイ州立大学のゲームクラブで出会った三人の学生、Frank Chadwick、Rich Banner、Marc Millerは、Game Designers' Workshop (GDW) を設立、東部戦線を扱ったDrang Nach Ostenを発表した。続いて続編のUnentschiedenを製作、やがて連結できるゲームシステムによるヨーロッパシリーズを発売した。すべてのヨーロッパシリーズを連結すると巨大なウォーゲームとなり、この規模をしのぐウォーゲームは未だ発売されていない。

1970年代はウォーゲーマーにとって黄金期だった。この時代の「Stragegy & Tactics」誌のコアな読者は十万人を越えていたと言われ、たくさんの会社がウォーゲーム産業に参画した。ウォーゲームの普及とともにルールは複雑化し、ルールブックは分厚く、たくさんのチャートによってダイスの目に修正が加えられるようになった。

家庭用コンピュータが参戦!

Commodore PET

1970年代後半になって市場に登場した家庭用コンピュータは、次の二つの理由からウォーゲーム業界に大きな影響を与えた。ひとつは、家庭用コンピュータの購買層とウォーゲームの購買層が統計的に重なり合っていた事実、もうひとつは、コンピュータは移動の情報を制限することが可能であるだけでなく、対戦相手もしてくれた事である。
栄えある最初の商業版コンピュータ・ウォーゲームデザイナーは、Chiris Crawfordである(彼は後にベストセラー、Patton vs. RommelBalance of Powerをプログラムする)。すなわち、1978年12月、Bill HensonがCrawfordの家を訪ねてコモドアーPET用のTankticsを買った時が、商用版コンピュータ・ウォーゲームのセールス第一号なのである。
コモドアー版Tankticsはグラフィック表示がなく、プレイヤーはコマンドラインから入力し、出力されたマップ座標をプリントアウトされた地図の上で参照するようになっていた。しかしながら、グラフィック表示にわずらわされなかった分、Crawfordは移動情報の制限、射線、コンピュータによる作戦の計算などのプログラミングに没頭することができた。

激しいビジネス戦
Crawfordがグラフィック機能を持つTanktics第二版にとりかかっている間、Joel BillingsはStrategic Simulations, Inc.,(SSI)を設立、John Lyon、Dave CookとともにApple II用のウォーゲームComputer Bismarckを発売した。そして、Crawfordが最初にTankticsを売ってから二ヶ月もたたないうちに、SSIはComputer Bismarckをサンアントニオ・ホビーに2本、ロスアルト・コンピューターランドに50本納入していた。Joel Billingsは、プラットフォームをApple IIに定め、最初から量販することを考えていた。当時、Apple IIコンピュータの2,100ドルに対しComputer Bismarckが60ドルだった。初期のComputer Bismarckの広告には、両方を合計して「2,160ドルのウォーゲーム」とキャッチコピーが書かれている。
Apple IIには、コモドアーにない長所があった。278 X 192ドットの解像度があり、最大8色の表現が可能だった。これによって、アイコンを船の形に、北大西洋の海を4色に塗り分けることができたのである。


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Computer Bismarckには、ウォーゲーマーにはおなじみの15ページのルールブックが付属し、索敵、天候、霧、航空攻撃、潜水艦攻撃、水上攻撃などのたくさんのチャートが付属した。ボードゲームと異なり、プレイヤーは隠れた敵と戦うことができた。やがて、家庭用コンピュータの浸透とともに、ボードゲーム市場は縮小することになる。

Universal Military Simulator

1980年になるとSSIは、Computer AmbushComputer NapoleonicsComputer conflictComputer Air Combatを発売、この頃のゲームタイトルにはすべて「Computer」が頭についていた。1980年に300,000ドル(3600万円)だったSSIのセールスは翌年には897,000ドル(1億764万円)になり、この数字は当時のウォーゲーム業界の中では最高と思われる。SSIのベストセラーは、Roger Damonが1986年に製作したWargame construction Setで、53,000本が売れた。

やがて、歴史家やメインフレームの技術者もウォーゲーム開発に加わるようになった。1985年に伝説のSid Meier (後にCivilizationを発売)は、Edward Bever博士とともにコマンドシリーズCrusade in EuropeDecision in the Desertを発売、その翌年にはConflict in Vietnamをリリースした。一方、Caltech社のコンピュータ・エンジニアWalter Brightは1976年にFORTRAN-10でEmpireを製作、このゲームはAtari STとAmigaに移植された後、1986年にIBM PC用にC言語で書き直されている。すべての時期を通じて最も売れた商用コンピュータウォーゲームはUniversal Military Simulator(UMS)であろう。UMSはIBM PC、Amiga、Apple IIGS、Macintosh版があり、シナリオディスクのセールスも含めると累計で10万本出荷されている。

Hapoon

1992年の「PC Computing」誌によれば、家庭用ソフトウェアのシェアの中でウォーゲームは36%を占めていた。家庭用コンピュータのメモリがより多くなり、計算速度が速くなるにつれ、より精密なウォーゲームが求められるようになった。360社のHarpoon、Mark BaldwinがQuantum Quality Productions, Inc.から発売したPerfect General、そしてUMS II: Nations at Warは、80〜90年代初期を象徴するゲームである。今後も、コンピュータ・ウォーゲームは密さが求められ複雑化するだろう。


my comments:
この記事は2003年春のS&T#215だが、軍用コンピュータはフライトシュミレータだけでなく、地上戦シミュレータ、戦術インターネットとしても広く使われるようになり、軍が開発したウォーゲームが一般家庭でプレイできるようにもなった。

地上戦シミュレータ
2004年イラクのFallujahの攻勢において、アメリカ軍は衛星撮影された画像をもとにFallujah市の3D-graphicsを作成、射線や死角の立体的なリサーチを行ったと言われる。それだけでなく2002年に陸軍がリリースしたゲーム、America's Armyのように、実戦さながらの訓練を3D-graphicsの中で行うことさえ可能なのだ。
America's Army
は入隊勧誘のために陸軍が作ったPCソフトで、製作には700万ドル(8億円)が投じられたと言われる。そして、このソフトがインターネットで無料配布されると同時に論争が巻きおこった。ゲームでは実戦さながらの市街戦はもちろん、仮想訓練によって下士官まで昇進を試みることができる(初級訓練を終えないと実戦に参加できない)。すなわち、ゲームで求められるのは射撃の精度だけでなく、状況判断やチームワーク、指令の伝達など多岐におよぶのだ。
米軍が主催するゲームコンベンションはさながら軍事ショーで、ゲームで優秀な成績を出したプレイヤーが特殊部隊の隊員と握手をしていた。1984年公開の映画「スター・ファイター」は、宇宙連合のコンピュータ・ゲームで高得点を出した少年が本物の宇宙戦争にスカウトされるというストーリーだったが、それが現実となったと言える。

America's Army
Urban Assault

America's Army
Urban Assault

分隊が無人の街を前進する。
お互いの位置を確認しながら、慎重に素早く進む。
視点はスムーズに360度回転し、俯瞰も可能。
アメリカ陸軍が本気で作っただけあって、プレイステーションを凌ぐプレイアビリティ。

商用ウォーゲームの軍事使用
伝統的に、アメリカ軍はゲームをトレーニングに導入することに積極的であり、民間の遊戯装置を訓練に用いることさえある。空軍が1940年代に使用していた飛行シミュレータは、コニーアイランドの遊園地から買い上げたものだった。Wired誌によれば、Atari社の1980年の戦車戦のアーケードゲームBattle Zoneは、ブラッドレーの訓練用に用いられたという。海軍はビデオゲームDoomJane's Fleet CommandJane's Fleet Commandの改造版を指揮官候補者の訓練に使用したことがあり、陸軍が使っていたRogue Spearはトム・クランシーが原作、フライト・シミュレータのロングセラーFalcon4.0も空軍で使用されていた。その他で使用が判明しているのは、 TacOpsBrigade Combat TeamDecisive Action、WarcraftHarpoon 3である。商用ウォーゲームの利点は、軍用シミュレーションと異なり習熟が容易で、システムを動かすためのサポート要員がほとんど必要ないことである、という。

TacOps

Decisive Action

Hapoon 3

Brigade Combat Team


軍用ウォーゲームの民間使用
民間の会社が発売するビデオゲームは、その内容が論争の的となることがあるが、軍が製作したAmerica's Armyもまた賛否両論となった。反対論者の意見は、ビデオゲームは都合のいい仮想世界にすぎない、ゲーム感覚で入隊する事態を招く、などというものであった。事実、中東の郊外都市を舞台にしたシナリオにおいて一般市民の姿は登場しない。軍が作ったゲームなので、ネット対戦モードでも敵(民兵)はすべてコンピュータが操作し、プレイヤーは全員アメリカ兵である。

America's Armyが発表されてから数年が経過した現在、ゲームのメジャーバージョンアップはなく、その後大きな反対運動がおきたというニュースも聞かない。もしかすると、ビデオゲームは陸軍が予想した程、リクルートの役にたっていないのかもしれない。
私がプレイした感想は、このゲームによって戦争に興味を持つ人もいるかもしれないが逆に嫌悪する人もいる、ということである。市販ゲームのような遊びがないため、リアリティと緊張感は高いものがあり、市街の情景はどの戦争映画よりも殺伐としたものだった。ゲームを終えた時は疲労感さえ覚えたが、これはAmerica's Armyがそれだけリアルなものを提供しているからかもしれない。

ネットからダウンロードできる軍用シュミレータはAmerica's Armyだけでなく、Armored Task Forceのような、陸軍大尉によって作られた限りなく軍用に近い商用シュミレーションもある。THQ社のC-Force (絶版)、Quick Silver社のFull Spectrum Commandは、民間と軍関係者の両方を対象とした軍公認のゲームである。

結論
Avalon Hillが商用ウォーゲームを発売してから半世紀が経ち、近未来戦の分野において、民間用と軍事用のゲームの境界はなくなりつつあるように見える。その理由には、家庭用コンピュータの進歩とインターネットの普及もあるが、アメリカ軍が商用ウォーゲームを軍用ウォーゲームの下位版とみなしていないこともあげられるだろう。そしてもちろん、アメリカ社会の公開性(openness)に負うところも大きい。

Armored Task Force