OBITUARIES
Redmond A Simonsen, co-founder of SPI,62

"That is sad news. Redmond had a talent that he developed and used. It must have given him some pleasure to see his work constantly being bid up in value on eBay. No other graphic artist has had as much impact on the way wargames look, and work. A one-of-a-kind guy if there ever was one." - James F. Dunnigan

Mr. Redmond A Simonsen, a co-founder of SPI passed away in March 11th, 2005.
His games will forever remain in our hearts.

2005年3月11日、SPIの共同設立者Redmond A Sirnonsen氏が亡くなった。同氏はこの数年、心臓病をわずらっていた。
Sirnonsen氏は、1969年にJames F. Dunnigan氏とSPIを設立、1982年の閉鎖まで文字通りSPIの柱としてウォーゲームの発展に寄与した。SPIのほとんどのゲームに同氏の名はクレジットされているが、クレジットがなくともSirnonsen氏の係わらなかったSPIのゲームはないと言っていいくらいである。現在、ConsimWorldにはたくさんの追悼の言葉が寄せられている。その中で興味深い事実を掲載する。

Sirnonsen氏の導入したアイデアは、今日、ウォーゲームのスタンダードになっているものが数多くある。ルールブックのコラム・ナンバリングシステム、SPI独特のマップデザインやコンセプトなどは同氏の発案によるものである。
デスクトップパブリッシングがない時代に効果的な生産システムを考案したのもSirnonsen氏だった。彼はSPIの人々に、自分の作ったシステムを学び忠実に従うことを求めた。その結果、ほとんどが二十代、中には十代も混じっていた十数名の集団が年間数十タイトルのゲームとたくさんの雑誌、果てはロールプレイングゲームまで出版していた。10年間にSPIが出版したゲームの数は400以上で、世界に流通するゲームタイトルの半分以上がSPIだった時もある。

Cooper Union(政府によって全学生の授業料が免除されているエリート校)で、1964年にファインアートの学位を取得したSirnonsen氏は、卒業後、本の表紙、レコードのジャケット、広告デザインを手がけた。SPIにおける彼のデザインはミニマリズムを強く意識したもので、直線やシンプル、無機質で機能的なものが多い。彼の作風はSPIスタンダードと言えるナンバリングされたマップや、「Tito」、「City Fights」に端的に現れている。タイポグラフィー(印刷文字を使ったグラフィック・デザインの総称)を思い切り効かせたパッケージはSPIゲームの顔だった。「ゲームデザイナー」という地位を作ったのがSirnonsen氏である、と言う人さえいる。

Sirnonsen氏は、ノルウエーからの移民を父母として1942年ニューヨークに生まれた。Sirnonsen氏の父親はブルーカラーの工員で、仕事中にビルから転落して亡くなっている。Sirnonsen氏は、1985年にテキサスに引越しするまで、アッパーマンハッタンの自分が生まれたアパートで暮らしていた。
Sirnonsen氏の興味は歴史、政治はもちろん、科学、写真、アート、SF、コンピュータ、数学、グラフィックデザイン、ニューヨーク、音楽、バレー、料理、コニャック、心理学、医学など多岐に渡り、妥協を許さないSirnonsen氏は、これらのテーマで論争をすると相手を打ち負かしてしまうのだった。

全盛期のSPIには、プレイテストや自作ゲームの持込みで大勢の若者が出入りしていた。無数のゲームが様々なレベルで進行状態である中、ゲームデザイナー達が新人にトレーニングしたり、中古のタイプライターでルールをタイプしたりしていた。コーヒーの匂いは常時充満し、コピー機は毎日のように故障した。人々は深夜まで出入りたが混乱はなく、Sirnonsen氏が自分が作った秩序の中心にいた。彼は、ほとんど常時、オフィスにいた。
当時21歳だったEric氏の記憶によれば、給与が少ないかわりに、Sirnonsen氏がEricの弟と一緒に、毎週金曜日の夜にディナーに連れて行ってくれるのが楽しみだったという。その場所はたいていSPIから5ブロック先の3rd Avenueの21番通りにあるステーキハウスで、Sirnonsen氏はミディアムレア、塩を少し、食後にコニャックを飲むのが習慣だった。ディナーが終わるのは通常朝の2時か3時で、あらゆるテーマについて議論したという。

Sirnonsen氏はかんしゃくが切れることがあり、その時のアプローチは恐喝的だった。頭の回転が速すぎて、他の人々がそれを理解するまで待たない傾向があったのだ。要点だけを言うか、ただ端的に発言した。ゲームデザイナーに電話帳を投げつけたことは伝説にさえなっている。しかし、彼は、相手が誰であろうと、年齢がいくつであろうと、傾聴すべき意見には耳を貸す人だった。
ある日、Justin Leitesという若いテストプレイヤーが、Sirnonsen氏にプレイテストの報告をした時のことだ。Justinは優秀なテストプレイヤーで、Sirmonsen氏に対して短く、「あのゲームは最低。」と言った。
Sirmonsen氏が詳細な説明を求めるとJustinは、「とにかくつまらないんだ。」としか答えなかった。最後にSirmonsen氏はキレそうになった。「おまえはわかっていない!おまえは子供で、私は45歳の大人だ。私はおまえをプロとして扱っている。この意味がわかるか?プロは何十年も年が違う相手を同格に扱わないんだ。25歳の奴の話を、わたしが真剣に聞いているだけで幸運だと思え。」
Justinはようやく意味を理解し、詳細な説明をSirnonsen氏に行ったのだった。

1982年にSPIが閉鎖された後、自発的に同窓会が企画され、Madison通り23番のFlanaganに50人の男女が集まった。SPIのあらゆる時代の元デザイナーや元スタッフが遠隔地からやってきたのだ。Sirmonsen氏もその中にいて、ビールを飲んで会話がはずむと、みんなで踊りはじめた。驚くことに、Sirmonsen氏は、エルビスプレスリーの物まねをはじめた。しかも本物そっくりなのだ。後で聞いてみると、彼はエルビスの大ファンで、高校の時は黒の皮ジャケットを着ていたという。

 


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