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アナコンダ作戦: 2002年アフガニスタン戦争

9.11のテロリストの攻撃に対するアメリカの反応は、世界中のアルカイダ拠点への攻撃だった。中でも、Taliban政府がAl Qaedaに聖域を与えていたアフガニスタンが作戦の中心舞台となった。

初期のアメリカ軍の戦略は、Talibanと対立している軍閥・北部同盟と連携し内戦を継続することだった。北部同盟の懐柔には外交と現金が用いられた。米英軍の参戦は、少なくとも最初の数ヶ月間は北部同盟に有利に働いた。400機による空襲は米空軍とNATO軍の混成で、ペルシャ湾の米空母およびパキスタン、ウズベキスタンの空軍基地から攻撃した。"K-2"と呼ばれたウズベキスタンのKurshiとKandabad基地は、重要な役割を果たした。

圧倒的空軍力を背景に、多国籍軍(米英軍)と北部同盟軍は電撃戦を遂行、11月13-14日にアフガニスタンの首都Kabul、12月7日にはTalibanの拠点Kandaharを占領したが、実際には、Taliban勢力は撤退戦術をとっていた。

TalibanとAl Qaeda
TalibanはAl Qaedaと結託していたが、両者はまったく異なる組織であった。パシュトゥーン独立運動からはじまったTalibanは、アフガニスタンの無秩序、無法状態に乗じて同地で勢力を伸ばした。アメリカ軍が2001年にアフガニスタンに降り立った時、ISI(パキスタン軍統合情報局)の支援を失っていたTalibanは、十分に弱体化していた。

「多国籍軍」の後押しによりTaliban政府は転覆、首都は北部同盟が占領し、ハミード・カルザイを据えた暫定政権が誕生した。これは、本当の敵がAl Qaedaであっことから考えても、戦争の終わりではなかった。Al Qaedaの数千名の兵士と高官は山地で抵抗していた。


Tora Boraの拠点強襲
Tora Boraはパキスタン国境およびKhyber Passから数キロに位置する洞窟のネットワークである。1980年代には反ソビエトの拠点であり、地元住民は何年もの間、Talibanを支援してきた。
攻撃を行ったのは、2,500名のパシュトゥーン出身の東部同盟軍を集めたAMF(アフガニスタン陸軍)と十数人の西側傭兵から成る「多国籍軍」だった。ソビエトのアフガン侵攻の経験から、アメリカ軍は正面に出ることを避け、空軍力で支援した。

作戦を実施して判明した事実は、東部同盟軍は北部同盟軍ほどの軍事経験もなく、Al Qaeda/Talibanを殲滅する意思も持っていないことだった。作戦中、AMF指揮官Mohammed ZamanはAl Qaedaと休戦協定すら結ぼうとした。表面上はAl Qaedaに降伏を促すものだったが、Al Qaedaに撤退する時間を与え、作戦は不十分な結果に終わった。Al Qaeda/Talibanは、Shah-e-Khotに逃れたのである。

Anaconda作戦
Kabulの南西130キロに位置するShah-e-Khotは海抜2200mの高地にある渓谷である。Shah-e-Khot渓谷もまたソビエト反攻の拠点だった。Shah-e-Khot渓谷にはOsama Bin LadinらのAl Qaeda高官も潜伏していると考えられた。

アメリカ中央軍(CENTCOM。アメリカ軍の地域別の統合軍の一つ)はShah-e-Khot渓谷への攻撃を命令、統合機動部隊Mountain(CJTF Mountain)の元にタスクフォースが編成された。計画では、「TF Dagger」と「TF Rakkasan」がShah-e-Khot渓谷のAl Qaeda/Talibanを挟撃・殲滅する予定だった。

「TF Dagger」とは、1,000名のアフガニスタン東部同盟軍と西側傭兵を中核とする三個中隊(AMF)であり、第5特殊部隊グループ (5th Special Forces Group、5th SFG)の"助言"のもと("命令"とは言わない)、運用された。
「TF Rakkasan」は、第101空挺師団と、第10山岳師団(山岳戦と雪中戦を専門とする)から編成された三個歩兵大隊で、CENTCOM指揮下にある。Tora Boraの経験に鑑み、この作戦では西側正規軍が投入された。

その他に世界中の同盟国から集められた400名の傭兵が、TF64、TF K-Bar、TF Bowie、TF Swordなどの名称で組織化された。これらのタスクフォースはCENTCOMもしくは、より上位の指揮系統の指揮下に置かれた。
傭兵は、渓谷の中および周辺部に空輸され、偵察、空襲の指令、脱出しようとする敵への待ち伏せ攻撃を任務とし、CENTCOMが高精度爆弾による空中支援を担当した。
作戦名は、敵を包囲し縮小した後に全滅させることから、ヘビの名を取りAnaconda作戦と命名された。

分析
Anaconda作戦は、紙の上ではすばらしい作戦だった。これは、湾岸戦争以来の本格的かつ大規模な米陸軍の地上戦投入であり、何よりも重要なのは、Al Qaeda高官を捕らえられる最後のチャンスだったことである。しかし他の複雑な計画と同様、Anaconda作戦も実施するや否、その作戦が本質的に持っている欠陥を露呈することになった。問題点は次の通りである。

  1. 敵勢力は1,000名以下と見積もられたが、実際はそれを上回る数だった。
  2. 米軍は既にイラク戦争の準備をはじめており、Franklin Heganback中将司令官が初期に投入できたのは、第101空挺師団の一個連隊規模しかなかった。
  3. ペンタゴンの方針は「ソビエト軍の轍を踏まない」ことであり、アメリカ人兵士は目立ってはならなかった。その態度は「AMFと空爆、特殊部隊への偏愛」と揶揄された。
  4. TF Rakkasanは、通常の連隊装備を欠くものだった。砲兵大隊が付属せず、軽中迫撃砲が砲兵装備の上限、歩兵大隊には二個中隊しかなく(通常は三個)、書類上は連隊だったが実質は軽歩兵大隊だった。
  5. 指揮系統に分断があり、傭兵部隊はCENTCOMもしくはCJTF Mountainの配属下、空爆を行う連合航空管制センター(CAOC)はCENTCOMの指揮下にあって、CJTF Mountainとは何のつながりもなかった。
  6. 当初、CAOCはAnaconda作戦の立案に参加していなかった。これはHeganback中将が空爆を重視しなかったからである。彼は奇襲効果を優先し、空襲で貴重な情報資料が失われることを懸念した。
  7. 空対地作戦も重視されず、空軍力による近接支援準備が不十分だった。このような場合、通常の歩兵部隊は砲兵による火力支援を呼ぶが、既に述べたように、TF Rakkasanには砲兵大隊が付属していなかった
  8. AMF(アフガニスタン陸軍)は、理論上はTF Daggerの一部分だが、西側傭兵指揮官は、AMFに助言はできても命令は下せなかった。機密保持のため、AMFには実施の直前までAnaconda作戦の内容を知らせていなかった。

3日で終わるはずだったAnaconda作戦は2週間かかり、計画通りに動いたものは何一つなかった。

作戦開始
公式記録では作戦開始は3月2日である。TF Dagger(アフガニスタン東部同盟軍 + 特殊部隊)が陸路からShah-e-Khot渓谷に潜入、一方で二個Rakkasanライフル中隊がヘリコプターで空輸された。別な四個中隊が第二波および予備として基地に待機していた。攻撃に先立ち、西側傭兵が潜入し観測および指令に適した高地をおさえていた。

計画ははじめから頓挫した。通信の混乱から空襲はキャンセルされ、"Whale"尾根ではTaliban兵から先制攻撃を受けたTF Dagger損害が出た。AC-130ガンシップはAMFを誤爆した。東部同盟軍の戦意は急落し、彼らは30キロ離れたGardezに逃げてしまった。その結果、Rakkasan二個中隊が敵の攻撃を一手に受ける結果となった。

さらに混乱に拍車をかける事件がおきた。3月3-4日の夜、TF SwordがSEALチーム「Mako 30」を、戦場を見下ろせる高地にMH-47で送ったところ、敵の対空射撃にあいSEALの隊員Neil Robertsを地上に落としてしまった。
TF Swordは、SEALSとレンジャー一個小隊からなる救出チームを作り、空爆支援を受けながら接近、Robertsが死亡していることを確認した。この"救出作戦"のおかげで、本来Rakkasan救出に振り向けられるべき空軍力が削がれたのである。