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USAAF (アメリカ陸軍航空隊) :
ヨーロッパ戦線、1942-45

北アフリカ
1942年、USAAFは北アフリカ戦線で苦戦を強いられた。機数においてドイツ軍を上回っていたものの、連合軍の空軍基地はドイツ軍より遠隔地にあり、ドイツ軍は局地的な優位のもとに戦うことができた。

イタリア戦線
1943年7月のSicily島上陸作戦において、USAAFおよびRAF(イギリス空軍)は、上陸地点の近接支援よりも戦略的・作戦的目標への攻撃を主とした。その結果、Sicily島Messina海峡にドイツ軍が張り巡らした高射砲陣地を爆撃しなかったため、シシリー島から脱出するドイツ船舶を攻撃できず、ヘルマンゲーリング師団をはじめとするドイツ軍エリート部隊はイタリア半島に逃れることができた。もし、これらの部隊がSicily島に封じ込められていたなら、その後のイタリア半島でのドイツ軍の防衛戦は不可能になっていただろう。
その後のイタリア半島Salerno上陸おいて、USAAFとRAFは地上部隊に完全な支援を行い、空軍力の有効性を証明した。

西部戦線
1942年8月17日、Rouenに対する17機のB-17の爆撃が、USAAFの最初の西部戦線への投入である。ドイツ空軍のMe-109、Me-110はB-17に無力であったため、双発戦闘機や爆撃機にロケット弾やキャノン砲を搭載した「新・爆撃迎撃機」が開発された。これらの「爆撃迎撃機」は機動性にすぐれず、当初ははかばかしい戦果を挙げることができなかったが、連合軍がよりヨーロッパ大陸の深部を爆撃するようになると、USAAFの損害が増加しはじめた。たとえば、1943年10月14日のSchweinfurtボールベアリング工場爆撃において、出撃した288機の爆撃機のうち62機が撃墜、USAAFは約600人の搭乗員を失っている。
連合軍の戦争プランナーは、最大にとりうる人名損失を1ミッションあたり5%に定めており、Schweinfurt爆撃の損害は限界を超えるものだった。計算上、アメリカ工業はその損失以上の爆撃機を製造することができたが、搭乗員の教育は追いつかないとされた。さらに、人道上の問題もあった。
ドイツ軍の迎撃機より優位に立てるP-51ムスタングやP-47が登場するまで、USAAFは、増槽をつけた護衛機によって守られながら、目標を限定して爆撃を行わなければならなかった。

USAAFが対処しなければならなかったもうひとつの問題は、目標の設定だった。当初、攻撃目標は、大西洋の通行の確保のために、Uボート基地が高優先順位に設定されていたが、戦果はそれほどのものではなかった。次に、USAAF戦争プランナーは、「エンジンがなければ飛行機は飛ばない」との理由から航空機のエンジン工場をターゲットにしたが、ドイツの工業技術は生産地を容易に変更できるほど優れていた。
最終的に、ドイツの経済目標への攻撃がもっとも有効であることが判明、目標は石油備蓄・精製施設と鉄道などの輸送手段に切り替えられた。USAAFは、経験上、これらの施設への爆撃は継続しなければ意味がないことを知っていた。RomaniaのPloesti石油工場への爆撃は1943年8月1日に一度しか行わなかったため、施設は補修され、石油生産が再開されていた。

D-Day
USAAFの第一目標は上陸作戦の支援に変更された。最初のターゲットはドイツ空軍の無力化でありBerlinやMunichを空襲した。主要都市を爆撃すれば、ドイツ空軍は迎撃機を出動せざるを得ないと予想され、狙い通り、1944年2月20〜26日の間に約700機のドイツ空軍機が撃墜されている。
この戦略の変更によって、ドイツ空軍は一時的に生産能力を回復できたが、パイロットの養成は間に合わず、その後、ドイツ空軍は凋落の一途をたどる。また、数字の上では機数が増えていても、空軍基地に配属されない限り、その機は戦力とならなかった。
このような作戦の結果、D-Dayの当日、ドイツ空軍機は2機が上陸地点まで到達できただけで、一方連合軍は14,674機が出動していた。

結論
1944年春から秋までの作戦で、USAAFはドイツ空軍を壊滅状態に追い込んだ。最大の原因は、ドイツ空軍がベテランパイロットを多数失ったことである。1944年秋の段階で、USAAFとRAFは合計4,700機の戦闘機、6.000機の中長距離爆撃機、その他4,000機を所有していたが、ドイツ空軍は5,000機であり、これは東部戦線を含めての機数だった。