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第二次大戦におけるスイス

スイスは1674年から国際紛争において中立を保ってきたが、その中立の基礎はスイス国内の兵役制度と十分な数の予備役、そして険しい地形にあり、それでも中立の維持に十分とは言えなかった。

1938年、ドイツがオーストリアを併合すると、スイス議会は国民に「最後の血の一滴まで搾り出し」国防に備えるよう公式に声明した。そして、1939年8月30日、スイス議会はHenri Guisanを将軍に任命したが、この地位は戦争状態もしくは国家的危機の場合にしか任命されないポジションだった。

 


Henri Guisan



1939年9月2日、ドイツがポーランドに侵攻した翌日、すなわちイギリスとフランスがドイツに宣戦布告する1日前、Guisanは総動員命令を発し、陸軍を430,000名まで増員したが、この数字はスイス総人口の10%に相当するものだった。
そして1940年5月11日、ドイツがヨーロッパ西部に侵攻したのを機に、Guisanは二度目の総動員令を発令した。アレン・ダレス(Allen Dulles、当時OSSスイス支局長)lによれば、1943年の時点でスイス陸軍の総数は総人口の二割、すなわち850,000名に膨れ上がっていた。この人数は、中立状態にある国家にとっては驚異的な経済的、人的負担だったが、同じように中立を宣言していたオランダやベルギーがドイツに占領された事実に鑑みれば、軍事的用意は不可避であった。

Guisanの防衛計画は、国境におけるドイツ軍の遅延作戦で、さらに内陸部の防衛拠点および都市で停滞作戦を行い、それに敗れた場合、山岳部に立てこもりゲリラ戦を行うことだった。このようにして侵略者に長期的かつコストの高い戦いを挑むのである。

スイス軍は隷下の部隊に、いかなる降伏命令も無視するよう指令していた。そもそもスイスはその地形から全軍に降伏を呼びかけることは不可能であり、万一、ラジオなどで降伏命令が通達されても、それがいなかる名によるものであっても敵のプロパガンダであるから降伏してはいけないと命令していた。これほど明確なドイツへのメッセージはなかった。スイスは降伏しないのである。

スイス人の懸念は、理由のないものではなかった。ゲッペルスとヒトラーはしばしば演説や書面の中でスイス人を「もっとも卑しむべき下劣な国民、新ドイツの敵」と酷評し、「ドイツはスイスを滅ぼす」と脅していた。
ドイツ首脳がスイスを恐喝する理由は他にもあった。1939年時点でスイス国内には200,000人のユダヤ人が住み、第二次大戦の終わりまでにその数字はヨーロッパ諸国からの亡命で400,000人になっていた。スイスはこれ以外に非ユダヤ人亡命者100,000人を受け入れていた。

スイス政府の声明や動員令は、ヒトラーのスイス侵攻計画の妨げとはならなかった。スイスは戦略的に重要な位置にあり、連合軍諜報部はスイスを拠点にヨーロッパ諸国に出入りしていたからである。

ドイツ軍の最初のスイス侵略作戦「Operation Tannenbaum」は1940年秋に予定され、12個師団が投入されるはずだった。ヒトラーのこの計画は、東部戦線にこれらの師団が必要であると主張するドイツ陸軍将軍達から強く反対された。仮にスイスを占領したとしても、大量の軍隊を占領軍としてスイス国内に残さなければならない。作戦は延期され、ソビエトに勝利した後にスイスを占領することになった。

1943年、ドイツ軍がロシアと地中海から撤退を余技なくされると、ヒトラーとドイツ陸軍は、こんどは防衛戦の観点からスイス侵攻を検討するようになった。チュニジアが失われた場合、連合軍はシシリー島に上陸する(実際に同年7月10日に連合軍は上陸している)。すると、連合軍は次にイタリア半島に侵攻するであろうから、その場合、スイスをドイツの支配下に置いておけば、増援や撤退が容易になり、スイスをドイツ帝国の防衛線とすることができる。またドイツ空軍も、スイス領上空を自由に通過できるのである。
(連合空軍、枢軸空軍ともにスイス領空を頻繁に侵犯していたが、対戦中、11機のドイツ空軍機がスイス空軍のMe-109に撃墜される事件が起きている。ヒトラーは報復にスイス空軍基地を破壊しようとしたが、成功しなかった。)

1943年3月18日、スイス侵攻作戦「Fall Schweiz」がヒトラー幕僚に届けられたが、ドイツ軍上層部はスイスとの戦争に消極的であり、ヒムラーもまたその一人だった。戦争がドイツの負けになることを恐れた彼は、スエーデンかスイス経由で連合軍と和平交渉するプランを持っていた。ヒムラーは、スイス侵攻作戦を1943年秋まで行わないようヒトラーに進言した。

ヒムラーは子飼いのヴァルター・シェレンベルク(Walter Schellenberg、SD第6局対外諜報部、部長)にスイスとの調停を依頼し、彼はスイス秘密警察のRoger Massonを通じてGuisanと交渉している。シェレンベルクはスイスに対し、ドイツにスイス侵攻の意図がまったくないことを強調しながら、スイスに対し連合軍と枢軸軍双方に対して完全に中立であることを求めたが、シェレンベルクの交渉はあまり成功しなかったと言ってよい。スイス侵攻派だったドイツ外務大臣リッベントロップのスイス公使が、Guisanに、「スイス侵攻の黒幕はシェレンベルクだ。」とほのめかしていた。

1943年夏、イタリアが連合軍に降伏すると、多くのドイツ兵が崩壊した第三帝国の南部戦線を守るため移動することが予想された。ドイツ軍がスイス領内を移動することを恐れたGuisanは議会に再度総動員令の発令を求めたが、議会はこれを拒否した。スイスにはこれを行うだけの力が残っていなかったのである。

総合的に、Guisanの戦争抑止計画は成功した。しかし、スイス国民とその経済が支払ったコストも大きかった。当時、ドイツ国民一人当たりに支給される糧食が280カロリーであったのに対し、スイス国民のそれは200カロリーだった。
Guisanは1945年8月20日、自分の任務は完了したとして将軍の地位から降りた。彼は1960年4月7日、祖国が平和と自由のもとに繁栄していることを見届けながら、天寿を全うした。