日本殲滅作戦
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はじめに |
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マッターホルン作戦 アメリカ軍の本格的な戦略爆撃のはじまりは、1944年6月11日にアメリカXX爆撃軍団が九州八幡製鉄所に行なった照準爆撃である。中国(成都)から行なわれた出撃はB-29の航続距離ギリギリのものだった。47機のB-29が投下した500ポンド爆弾は1発しか製鉄所に命中しなかった。 その後もアメリカXX爆撃軍団は繰り返し九州に空襲を行なったが、中国からの攻撃は補給上多大の支障を伴うものだった。第二次大戦の末期まで、インドから中国への直接の補給路は存在しなかったのである。100機の爆撃機による一回の攻撃に2300トンの物資を必要とし、しかもB-29は九州北部しか往復できなかった。アメリカ軍の戦略家は、太平洋上の諸島がマッターホルン作戦を成功させるのに必要であると考えていた。とりわけ、マリアナ列島(サイパン、テニアン、グアム等)は、B-29による日本本土爆撃に有効な基地を提供すると考えられた。 グァム、テニアン、サイパン島が1944年夏に占領されるとアメリカXXI爆撃軍団が編成され、東京までの距離が1200マイルとなった。 |
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ルメイ将軍 ルメイ将軍は、日本への焼夷弾・絨毯爆撃で有名だが、精密爆撃から絨毯爆撃への転換を命じたのはワシントンである。アメリカの政治指導者達は、日本への空襲を行なう前から絨毯爆撃を望んでいた。高性能爆弾による照準爆撃の成果が上がらない中、戦争をより早く、より経済的に終了させる要請が高まっていた。1944年12月18日のインドのXX爆撃軍団による満州への焼夷弾攻撃が成功すると、同様の攻撃を日本の工業都市に行なう圧力が強くなっていった。 1945年3月、ルメイ将軍は、それまでの25,000フィート以上の高度からの昼間照準爆撃から、5,000〜8,000フィートの夜間、焼夷弾による絨毯爆撃に方針を変更し、驚異的な戦果を上げた。 3月9〜19日の間に行なわれた日本の4つの大都市に対する空襲では32平方マイルを破壊し数万人の日本人を殺傷した。同年6月、より多くのB-29がマリアナ列島に到着すると、ルメイ将軍は日本の60の都市に昼間・夜間空襲を行なうようなった。 |
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スターベション(飢餓)作戦と原子爆弾 8月1日の大規模空襲は、通常兵器による戦略攻撃がどれだけ甚大な戦果をもたらすかを示していたが、新型爆弾の開発は航空戦略にさらに新しい時代を開いた。8月6日、広島にリトルボーイ、8月9日、長崎にファットマンが投下されると、5日後に日本は無条件降伏をしたのである。(しかし、天皇は在位することが許された。) |
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ダウンフォール作戦 |
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オリンピック作戦 第五艦隊(レイモンド・スプルーアンス提督)は、10隻の空母、16隻の支援空母で上陸作戦への近接支援を行い、上陸用舟艇や輸送船を含めた艦船の数は3,000隻に達した。 第三艦隊(ウイリアム・ハルゼー提督)は、17隻の空母と8隻の高速戦艦によって機動攻撃を担当した。1945年の中期までに連合軍は1200機の戦闘機が投入可能であり、その数は月を追うごとに増えていた。オリンピック作戦が開始されるまでにアメリカ海軍は22隻の空母、イギリス海軍は10隻の空母を用意する予定であり、計1,914機の戦闘機が運用可能だった。 上陸に対する日本軍の作戦は、自殺的な猛攻だった。連合軍艦船が本土から200マイルに達した時点で10,000機の攻撃機が迎撃し、そのうちの3/4はカミカゼ攻撃であり、海岸近くでは自殺ボートと人間魚雷が残りの連合軍船舶を攻撃し、上陸した連合軍部隊に対しては、3倍の兵員で海に押し戻す予定になっていた。それでも上陸した連合軍には数百万の民間兵がゲリラ戦を挑むはずだった(しかしほとんどの民間兵は武器、訓練、通信の手段を持っておらず、日本人によるゲリラ戦の有効性は不明である。) 予想される連合軍の損害は、タワラ、硫黄島、沖縄の戦闘から類推して25万人と言われるが、これは見積もる人によって異なる。いずれにせよ、オリンピック作戦が実施された場合、第二次大戦最大の損害がアメリカ軍に生じたと推測できる。 |
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オリンピック作戦の詳細 さらに沖縄基地にはイギリス空軍のランカスター爆撃機640機も到着する予定だった。ランカスター爆撃機は空中給油ができ、通常の構成で7トンの爆弾を積載できたが、これはB-29に次ぐ容量だった。640機のうちの半分は空中給油機だったが、それでも連合軍は1946年春までに、B-29、ランカスター、B-24、B-32あわせて2000機を投入できたのである。 計画では、硫黄島、ルソンの極東航空隊の戦闘機と航空機も、九州の鉄道、橋梁、湾岸防衛構、自殺ボートが隠された洞窟、レーダー施設、対空砲などを攻撃することになっていた。そして、中国大陸、朝鮮半島の日本軍に対しても増援を不可能にするため爆撃が計画されていた。上陸までに投下される爆弾は総計100,000トンである。 この基地は、翌年3月のコロネット作戦のための前進基地であり、720,000名の兵員と3,000機が収納できる巨大基地となるはずだった。この基地からは、長距離爆撃機のみならず中距離爆撃機も関東平野を爆撃することができた。 |
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コロネット作戦 Y-Day(コロネット作戦の上陸日)の三ヶ月前から、艦砲射撃と空襲によって大規模な破壊を行ない、攻撃の中にはミサイル、ジェット戦闘機、空中からの化学兵器の散布も含まれていた。1946年3月に関東平野の南東と南西から上陸する連合軍は、古典的な挟撃作戦によって約10日で東京を包囲する。計画では50万人の兵士と1,900機の航空機が投入されることになっていた。 |
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