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日本殲滅作戦
Downfall

 

はじめに
1942年後期から始まったアメリカ軍の飛び石作戦、すなわち太平洋諸島への上陸作戦は、日本本土爆撃のための空軍基地を建設することが目的だった。そして1945年4月までに、アメリカ軍はフィリピン、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄を占領した。
これらの基地を通じて、B-29は、原子爆弾を広島に投下する9ヶ月前より、日本本土の60ヶ所以上の都市に高機能爆弾と焼夷弾を投下した。アメリカの対日戦略の中心は、日本列島の都市部と工業地帯への集中的な戦略爆撃、ひいては原子爆弾の投下であり、日本はまさにその戦略の前に降伏したのである。

マッターホルン作戦
日本列島への包括的な戦略爆撃計画の立案は、マッターホルン作戦からはじまる。1943年11月に完成したマッターホルン作戦は、当初、中国の前進基地のB-29から行なわれる予定だったが、太平洋の島々をアメリカ軍が占領した結果、これらの諸島から出撃されるよう変更された。

アメリカ軍の本格的な戦略爆撃のはじまりは、1944年6月11日にアメリカXX爆撃軍団が九州八幡製鉄所に行なった照準爆撃である。中国(成都)から行なわれた出撃はB-29の航続距離ギリギリのものだった。47機のB-29が投下した500ポンド爆弾は1発しか製鉄所に命中しなかった。

その後もアメリカXX爆撃軍団は繰り返し九州に空襲を行なったが、中国からの攻撃は補給上多大の支障を伴うものだった。第二次大戦の末期まで、インドから中国への直接の補給路は存在しなかったのである。100機の爆撃機による一回の攻撃に2300トンの物資を必要とし、しかもB-29は九州北部しか往復できなかった。アメリカ軍の戦略家は、太平洋上の諸島がマッターホルン作戦を成功させるのに必要であると考えていた。とりわけ、マリアナ列島(サイパン、テニアン、グアム等)は、B-29による日本本土爆撃に有効な基地を提供すると考えられた。

グァム、テニアン、サイパン島が1944年夏に占領されるとアメリカXXI爆撃軍団が編成され、東京までの距離が1200マイルとなった。
1944年11月24日、XXI爆撃軍団は88機のB-29によって、二年前のドーリットル攻撃以来の照準爆撃を行なった。目標は東京郊外の武蔵野にある中島航空工場だったが、24機しか工場に爆弾を投下できず、高高度の風と雲によってほとんどが命中しなかった。XXI爆撃軍団はその後4度の照準爆撃を同工場に試みているが、戦果はほとんどなかった。

ルメイ将軍
1945年1月、中国のXX爆撃軍団司令官だったカーチス・ルメイ将軍がXXI爆撃軍団および米陸軍航空隊の指令官となると、ルメイは、マッターホルン作戦の目標遂行のために作戦の問題点を調べはじめた。

ルメイ将軍は、日本への焼夷弾・絨毯爆撃で有名だが、精密爆撃から絨毯爆撃への転換を命じたのはワシントンである。アメリカの政治指導者達は、日本への空襲を行なう前から絨毯爆撃を望んでいた。高性能爆弾による照準爆撃の成果が上がらない中、戦争をより早く、より経済的に終了させる要請が高まっていた。1944年12月18日のインドのXX爆撃軍団による満州への焼夷弾攻撃が成功すると、同様の攻撃を日本の工業都市に行なう圧力が強くなっていった。

1945年3月、ルメイ将軍は、それまでの25,000フィート以上の高度からの昼間照準爆撃から、5,000〜8,000フィートの夜間、焼夷弾による絨毯爆撃に方針を変更し、驚異的な戦果を上げた。

3月9〜19日の間に行なわれた日本の4つの大都市に対する空襲では32平方マイルを破壊し数万人の日本人を殺傷した。同年6月、より多くのB-29がマリアナ列島に到着すると、ルメイ将軍は日本の60の都市に昼間・夜間空襲を行なうようなった。

スターベション(飢餓)作戦と原子爆弾
そして1945年8月になると、満州、朝鮮、中国北部から日本本土への物資を断絶させるためスターベション作戦が実施され、下関および日本海その他の水道に12,000個の機雷を敷設、670隻の日本船舶を沈めた。その間も、増産されたB-29によってXXI爆撃軍団の規模は拡大し、本土における爆撃範囲も広くなった。8月1日の空襲はアーノルド将軍(ルメイ将軍の上司)が第二次大戦の中で行なった中でも最大のもので、836機のB-29によって6,145トンの焼夷弾と高性能爆弾、機雷が日本中の都市と軍事目標に投下された。

8月1日の大規模空襲は、通常兵器による戦略攻撃がどれだけ甚大な戦果をもたらすかを示していたが、新型爆弾の開発は航空戦略にさらに新しい時代を開いた。8月6日、広島にリトルボーイ、8月9日、長崎にファットマンが投下されると、5日後に日本は無条件降伏をしたのである。(しかし、天皇は在位することが許された。)

ダウンフォール作戦
日本が降伏しなかった場合、連合軍はダウンフォール作戦によって東京を占領する予定だった。ダウンフォール作戦は二段階から成り、第一段階の「オリンピック作戦」で九州の南半分を占領、九州を戦略爆撃および次の上陸作戦の前進基地としながら、翌年3月の「コロネット作戦」で関東地方を占領する計画だった。

オリンピック作戦
1945年10月1日に予定されていたオリンピック作戦は、マッカーサー隷下のウォルター・クルーガー将軍の第六軍が行なう予定だった。この上陸作戦に動員される兵力は252,000名の歩兵と87,000名の海兵隊から成る16個師団であり、ヨーロッパ戦線の部隊は予定されていない。
上陸作戦を支援するため、アメリカ海軍はニミッツ将軍に第三艦隊と第七艦隊を与えたが、これは太平洋で利用できるすべての艦隊に等しかった。(それまで第三艦隊と第七艦隊が同一の作戦に参加することはなかった。)

第五艦隊(レイモンド・スプルーアンス提督)は、10隻の空母、16隻の支援空母で上陸作戦への近接支援を行い、上陸用舟艇や輸送船を含めた艦船の数は3,000隻に達した。

第三艦隊(ウイリアム・ハルゼー提督)は、17隻の空母と8隻の高速戦艦によって機動攻撃を担当した。1945年の中期までに連合軍は1200機の戦闘機が投入可能であり、その数は月を追うごとに増えていた。オリンピック作戦が開始されるまでにアメリカ海軍は22隻の空母、イギリス海軍は10隻の空母を用意する予定であり、計1,914機の戦闘機が運用可能だった。

上陸に対する日本軍の作戦は、自殺的な猛攻だった。連合軍艦船が本土から200マイルに達した時点で10,000機の攻撃機が迎撃し、そのうちの3/4はカミカゼ攻撃であり、海岸近くでは自殺ボートと人間魚雷が残りの連合軍船舶を攻撃し、上陸した連合軍部隊に対しては、3倍の兵員で海に押し戻す予定になっていた。それでも上陸した連合軍には数百万の民間兵がゲリラ戦を挑むはずだった(しかしほとんどの民間兵は武器、訓練、通信の手段を持っておらず、日本人によるゲリラ戦の有効性は不明である。)

予想される連合軍の損害は、タワラ、硫黄島、沖縄の戦闘から類推して25万人と言われるが、これは見積もる人によって異なる。いずれにせよ、オリンピック作戦が実施された場合、第二次大戦最大の損害がアメリカ軍に生じたと推測できる。

オリンピック作戦の詳細
8月上旬の時点でXXI爆撃軍団は、マリアナ諸島に約1000機のB-29を保有していた。この爆撃軍団にはヨーロッパ戦線でB-17、B-24に搭乗していたベテランパイロットが加わる予定だった。それと別に、ドーリットル将軍率いる第8航空隊は沖縄に建造した航空基地に600機のB-29を用意することができた。

さらに沖縄基地にはイギリス空軍のランカスター爆撃機640機も到着する予定だった。ランカスター爆撃機は空中給油ができ、通常の構成で7トンの爆弾を積載できたが、これはB-29に次ぐ容量だった。640機のうちの半分は空中給油機だったが、それでも連合軍は1946年春までに、B-29、ランカスター、B-24、B-32あわせて2000機を投入できたのである。
九州南部への上陸予定日は9月1日であり、この日はノルマンジー上陸作戦のD-DayにちなんでX-Dayと呼ばれた。上陸作戦の半月前、すなわち8月15日から二週間の間、第三艦隊の航空機が日本軍の航空基地、通信ライン、海軍艦船に集中的な攻撃を行ない最大の打撃を与える予定であった。攻撃が最も激しくなるのは8月16〜23日とされていた。

計画では、硫黄島、ルソンの極東航空隊の戦闘機と航空機も、九州の鉄道、橋梁、湾岸防衛構、自殺ボートが隠された洞窟、レーダー施設、対空砲などを攻撃することになっていた。そして、中国大陸、朝鮮半島の日本軍に対しても増援を不可能にするため爆撃が計画されていた。上陸までに投下される爆弾は総計100,000トンである。
作戦が行なわれた場合、9月1日、 第五艦隊はカミカゼと自殺攻撃の合間を縫って、14個師団のうちの10個師団を4ヶ所の上陸予定地点に上陸させる。第三艦隊は空襲によって近接支援を行い、橋頭堡が湾岸部にできたなら、歩兵と海兵隊によって九州の南半分を制圧、北部の日本軍を遮断した上で基地を建設する。

この基地は、翌年3月のコロネット作戦のための前進基地であり、720,000名の兵員と3,000機が収納できる巨大基地となるはずだった。この基地からは、長距離爆撃機のみならず中距離爆撃機も関東平野を爆撃することができた。

コロネット作戦
実行されたなら第二次大戦で最大の上陸作戦となったコロネット作戦は、アイゼンハワー将軍率いる米第8軍がヨーロッパから参戦し、マッカーサーの太平洋連合軍と連携することになっていた。

Y-Day(コロネット作戦の上陸日)の三ヶ月前から、艦砲射撃と空襲によって大規模な破壊を行ない、攻撃の中にはミサイル、ジェット戦闘機、空中からの化学兵器の散布も含まれていた。1946年3月に関東平野の南東と南西から上陸する連合軍は、古典的な挟撃作戦によって約10日で東京を包囲する。計画では50万人の兵士と1,900機の航空機が投入されることになっていた。

JB-2
ダウンフォール作戦でアメリカ軍は、大規模な爆撃に加え、誘導ミサイルJB-2 (Jet Bomb 2) の使用も検討していた。ベースになったミサイルはヨーロッパで捕獲したドイツ軍のV1で、命中精度を向上させために誘導装置が装備されていた。亜音速で低高度を飛ぶJB-2は、上陸用舟艇や小型空母から発射できた。
1945年秋までに5,000機が生産される予定で、1946年春には1日500機を生産できるラインが整う予定だった。これが完成していたなら、通常の爆撃の他に、昼夜を問わず一日数百発のミサイルが日本に落とされたであろう。