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CBI: 1941〜45年の東南アジアの戦争
日本の戦略
1937年からはじまった日中戦争は泥沼化していた。西インドからビルマ、南太平洋における豊富な地下資源を奪取することが、当時の日本が考えた「大東亜共栄圏」の目標だった。日本は、東南アジアにおいて決定的な勝利を得ることで西側諸国と有利な講和を結び、中国をめぐる紛争が終結できると考えていた。
ヨーロッパ主要国とアメリカを敵にまわすこのプランは、日本にとって勝算が低いものだったが、前述のように1940年のドイツ軍によるフランスとオランダの占領、そしてイギリス軍が北フリカと西太平洋に釘付けになっている事実がオッズを変えた。アメリカもヨーロッパ戦線に参戦するための動員の真っ只中にあった。
日本の戦争プランは、複数の同時攻勢からできていた。
マレー、シンガポール、ビルマの占領は、連合軍をインド洋と太平洋に分断するためにも効果的な戦略目標だった。湾岸部分を日本に占領された中国側への唯一の補給路が、ビルマ経由のルートだった。日本は、ビルマを占領することで、中国への連合軍による物資の補給を断つ予定だった。(この地域で活躍したのがアメリカ義勇空軍「フライングタイガー」である。)
日本軍の勝因
1941年12月7日から開始した日本軍の攻勢を連合軍は止めることができなかった。真珠湾とフィリピンのクラーク空軍基地への空襲の後、12月10日フィリピン上陸、東シナ海で戦艦プリンスオブウェールズを撃沈、12月25日香港上陸、1942年1月11日、オランダ領スマトラ侵攻を行い、シャム(タイ)を支配下に置いた。1942年2月15日、シンガポールの間近まで迫っていた日本軍に対し、14万のイギリス軍が降伏した。
日本陸軍は、浸透戦術、ジャングルの戦闘、奇襲にすぐれていた。しかもこの時機、イギリス兵の主力、インド兵、オーストラリア、ニュージーランド軍は北アフリカ戦線に送られていて、東南アジアの連合軍は旧式の装備と未経験な兵士の集まりだった。この誤りは、主にイギリス情報部が日本軍の軍事力を低く見積もりすぎていたことに原因していた。(アメリカはその間違いをイギリスに指摘していた。)
エンドゲーム
CBIにおける勝利者は誰だろうか?もちろん、最終的には、日本軍をCBIから追いやった連合軍が勝利者と言ってよい。しかし、戦争のほとんどの期間を通じて、CBIが日本の占領下にあった事も事実である。
CBIにおいて、日本の空陸軍は少なくとも1943年の後半まで連合軍と対等の戦闘をする能力があった。1944年でさえ、日本陸軍はインドへの侵攻作戦を行ったほどである(インパール作戦)。CBIにおける連合軍の勝利は、太平洋戦線が泥沼化し、日本が東南アジアの主力を太平洋に移動しなければらなくなった事実に負うところが大きい。
CBIにおける連合軍の物資補給は空輸に頼っていたから、日本軍が戦略的に効果的な空襲を行ったなら、それが限定的なスケールであったとしても、インパールやコヒマを1944年に奪取することはできたかもしれない。空軍力が圧倒的に支配した太平洋戦線と違い、CBIは陸戦のキャンペーンだったから、陸軍を集中するなら、さらにイギリス軍に対しいくつかの勝利をおさめることができたかもしれない。1944年の初期まで、イギリス軍の補給は貧弱だった。
1943年半ばまで、連合軍は日本軍の空軍力の前に停滞を余儀なくされていた。日本軍が、カルカッタなどの都市に集中的な空爆を試みたなら、連合軍の補給システムは大きな損害を受け、日本軍はインドまで侵攻できたかもしれない。
もちろん、日本軍によるインド占領が何をもらたすかは疑問である。当時のインドは、シンガポール陥落などの日本軍の破竹の勝利に後押しされて、イギリスの植民地政策に対する抗議運動がはじまっていたが(ガンジーもこの時機に投獄されている)、日本がインドを占領したなら同じように反日運動が起きたに違いなく、中国における日本軍と同じ泥沼化したに違いない。