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中東戦争: 1956、1967年のシナイ半島

第二次大戦後に独立を果たしたアラブ諸国において、軍隊の将校は軍事的スキルよりも政治的信頼度によって選ばれた。上級将校は、国を指導するエリート階級と同じ宗教的、政治的バックグラウンドを持つ者の中から採用され、士官達は社会階級の違う一般兵士と一緒に訓練せず、指揮系統は極度に中央集権的であり、戦術的決定さえ最高指揮官の許可が必要だった。
エジプト軍の場合はさらに、下士官が育っていないため、兵士に命令を伝え実効させることに問題が生じた。指揮官は、「全体がよく見えるから」という理由で兵士を後方から指揮し、命令の実行はしばしば、従わない兵士を処罰することで促進された。識字率の問題から、末端の兵士は近代的装備を操作することが困難だった。これらの要因が積み重なって、ソビエトから購入した膨大な数の最新兵器と、それを装備する軍の実力との間に激しい乖離が生じていた。たとえば、50機の戦闘機を配備しているということは、必ずしも50機が戦闘に参加できるとは限らない。メンテナンスの不備、部品の不足、パイロットの不足などの原因で大幅にそれを下回ることが多かった。1960年代、アラブ諸国の多くの指導者は、「イスラエルを海に落とす」と公言していたが、軍の編成は依然、防御が主体である場合が多かった。
アラブ諸国の軍隊がこのようであった理由は、結局のところ、政治指導者にとって、自国民が信頼できないからだった。強力で自立した軍隊は、クーデターを起こす危険性があった。そして軍には、国内で動乱が発生した時、指導者の盾となることが求められていた。

クーデターによってムハンマド・アリー王朝を倒し、エジプトの大統領となったナセル中佐は、言うまでもなくエジプト軍の問題が何であるかを熟知していた。社会の近代化を推し進めたナセル大統領は、エジプト軍の近代化への努力も惜しまなかったが、先任者(王朝政府)ゆずりの問題点は、簡単に是正できるものではなかった。国の社会水準を越える軍隊を持つことはどの指導者にとっても不可能なのである。エジプト軍を近代化するには、アラブ社会そのものを変革しなければならなかった。
近代国家にとって、情報の透明性と真実性は血液のようなものである。軍隊において、訓練、装備、戦果に関する報告が、政治的配慮からゆがめられて報告されるなら、その軍は有効に機能しない。アラブ社会特有の性質から、エジプト軍の戦力は、記録の上では立派だったが、内容は為政者を裏切っていた。過小なイスラエル軍がエジプト軍の大部隊に勝利できた理由のひとつは、エジプト軍の土台にある文化にあった。
(S&T#185に、第一次中東戦争の詳細な記事があります。)

Gamal Abdel Nasser

1952年のクーデター

ガマル・アブデル・ナセルは、1918年にエジプトのアレキサンドリアの郵便配達夫の家に生まれた。彼は王室軍事アカデミーを20才で卒業、この時すでに秘密の革命組織「自由将校団」を作っていたと言われる。当時のエジプト議会は、イギリスの強い内政干渉の下、国土の三分の一を所有する少数の地主層が議会を支配、 国王Faruk一世は放蕩なプレイボーイだった。自由将校団の目的は、イギリスと国王を排除することだった。
政府の腐敗と対イスラエル戦争の敗北(第一次中東戦争)民衆の不満が増大する中、1952年7月23日、自由将校団はクーデターを成功させた。Muhammad Naguib将軍を大統領にたてた将校団は、地主の権限を縮小させ、政党を解散させるなどのラディカルな政策を行った。翌年にはエジプト王室が排除され、共和制が宣言された。
1954年にナセルは政治の表舞台に姿をあらわし、Naguibから権利を奪うと首相に就任、1956年には満場一致で大統領になった。
ナセル大統領の非同盟主義に対する制裁として(非同盟主義とは、米ソいずれの陣営にも属さない政治的立場。ナセルの他に、インドのネルー、インドネシアのスハルノ、ガーナのエンクルマ、ユーゴスラビアのチトーなどがこの立場をとった。)、イギリス、フランスはアスワンハイダムの事業から資本を撤収、それに対し、ナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言、第二次中東戦争(スエズ動乱)が勃発する。
エジプトにとって、スエズ動乱は国家の主権が試された事件であり、スエズ国有化は西側世界に突きつけたアラブの挑戦状だった。スエズ動乱の後、エジプトは七十数年におよぶイギリス支配から完全独立を果たし、1970年に心臓病で急死するまで、ナセル大統領の人気と影響力が衰えることはなかった。

スエズ運河の国有化はエジプトの独立を象徴した。

クロムウェルのニューモデル軍
1642〜51年の第一次イギリス内戦

クロムウェル

17世紀まで、イギリスは費用と反乱の懸念から、軍隊を維持していなかった。戦役の度に、地方の準貴族階級が歩兵や騎兵として召集され、戦争が終わると組織は解散されられていたのである。特別な技術を必要とする砲兵部隊は、一般人や傭兵と契約して編成していた。このようにして組織した軍隊の信頼性と効果性は、指揮官の質、賃金の額や略奪できる内容、そして、戦争の大義名分にどれだけ軍人が賛同しているか、にかかっていた。実際のところ、多くの兵士が戦争に参加する目的は、金と略奪、そして生き残ることだったのである。
その結果、当時のイギリス軍は、錬度が非一様、戦意は予測不可能、補給は押し入りと略奪、忠誠心はないに等しいならず者の集まりになっていた。一方で法律は、貴族階級に武装することを義務付ていたから、国を二分する政治情勢の中で、イギリス全土に重武装する軍人が充満する状態になっていた。このような時にイギリスの第一次内戦が勃発したのである。
内戦の最初の三年間は、残虐性と非情さが勝敗を決する戦いだった。やがて情勢は膠着状態となり、いずれの側も相手の軍を壊滅することができなくなった。

ニューモデル軍の有名な赤いユニフォーム

議会派の指揮官オリバー・クロムウェルがその軍事的才能をあきらかにしたのは、1644年のマーストン-ムーアの戦い(S&T#101)である。妥協を赦さない独立派に属していた彼は、勝利の後、国王派軍に対する厳しい処罰を望んだが、マンチェスター卿は彼らを解放し、いつものように、戦闘の過程で議会派軍は散り散りになっていた。
議会軍の弱体を痛感したクロムウェルは、私兵を解散させて議会軍に編成し、ユニフォーム、食料、賃金を支給し、交戦規定、戦術などを記した軍事要理を配布することで、最強の軍隊を創設することを議会に提案した。ニューモデル軍と呼ばれたこの軍事組織のもっとも革新的な部分は、昇進が、出生や家柄、人脈によるものでなく、戦場の功績によって行われることだった。
1645年2月に誕生したニューモデル軍は、近代イギリス軍の出発点となった。ニューモデル軍は向かうところ敵なしで、同年6月14日ネーズビーの戦いで国王派に致命的な打撃を与え、1649年にチャールズ1世を捕獲した。議会は国王を処刑し、君主制は廃止された。その後のイギリスの歴史を考えるなら、異常な事態だった。

独立派とクロムウェルの専制体制が始まると、彼は王党派討伐を口実にアイルランドにイギリスを侵攻させ、植民地化する(これが20世紀のIRAテロリズムの遠因となる。)
その後、クロムウェルは武力で議会を解散し、1658年には、護国卿となって独裁政治を行なった。そして、オランダやスペインと海上の覇権をめぐっての戦い勝利を収め、17世紀のイギリスの海上覇権の基礎を築いた。
(クロムウェルの死後は、彼の息子が護国卿に就任している。)

第二次大戦のドイツ海軍

グラフツェッペリン

ドイツ海軍といえばUボートが有名だが、第二次大戦勃発の時点で、ドイツが持つ潜水艦の総数はわずか57隻しかなく、この数はフランス77隻、ロシア75隻と比較しても少ない。イタリアは115隻の潜水艦を所有していた。
潜水艦と航空機は、第一次大戦後のドイツ海軍のZ-Planの中で、水上作戦に附随する補助的な役割としかみおらず、ドイツ海軍は第一次大戦の経験から、潜水艦は通商船に決定的な打撃力を持たず、索敵技術の進歩により潜水艦攻撃はますます無効になる、と考えていた。そもそも、1919年にゼロからつくりあげたドイツ海軍の仮想敵国はフランスとポーランドであり、大西洋は予定戦場でなかったのである。
ヒトラーが1933年に政権を掌握した後も、エーリッヒ・レーダー提督は伝統的な砲撃戦に重点を置き、レーダー提督にとっては幸いなことに、ヒトラーが海軍に口を挟むことはあまりなかった。
1939年にドイツ海軍が持つ空母は皆無で、グラフツェッペリンだけが建造中だった。ヒトラーはレーダー提督に、戦争は早くても1942年まではじまらない、と言明しており、計画によれば、ドイツ海軍の最低限の主力艦がそろうのは1944年だったが、その計画さえ1939年には二年も遅れていた。
これらが原因で、ドイツ海軍は第二次大戦がはじまると、自ら望まない、予見していなかった戦いを強いられることになる。イギリスへの通商船を撃沈するために、艦船の建造計画は大幅な変更を余儀なくされ、1939年から45年までにドイツが生産した水上艦が17隻であるのに対し、同期間に建造した潜水艦は1100隻になっていた。
(記事は、大西洋の潜水艦作戦、ノルウェー近海の通商妨害作戦、ビスマルクの海戦の図解を示し、大戦中の具体的な海軍の作戦を包括的に解説しています。)

2005年の予定

#224の読者アンケートは、約200通の返信があり、これは近年のS&Tにおいてもっとも多い数だという。そのアンケートの結果に基づき、S&T誌は次ような出版予定を発表した。233号までの予定は確定だという。

11 Feb, 2005 #227 Vinegar Joe's War (太平洋戦争の中国、ビルマ、インド)
25 Mar, 2005 #228 The Old Contemptibles (大きめのカウンターで1914年の第一次大戦)
13 May, 2005 #229 Khan (モンゴル帝国の興隆)
01 Jul, 2005 #230 Downfall (オリンピック作戦を大きめのカウンターと簡易なルールで。)
19 Aug, 2005 #231 French & Indian War (Asia Crossroadsのシステム。ヘックスでなく四角いグリッドになる。)
07 Oct, 2005 #232 Catherine the Great (エリアマップ方式のソロゲーム)
25 Nov, 2005 #233 Cold War Battles (冷戦時代のブタペストとアンゴラの市街戦を大きめのカウンターで。)
2006 #234 Lest Darkness Fall (特大のカウンターで、ローマ帝国と蛮族の戦い)
2006 #235 No Prisoners! (アラビアのロレンス。第一次大戦の中東。)
2006 #236 Dided with Boots On! (1775年のケベックの戦い。大きめのヘックス。)
2006 #237 Dagger Thrusts (モンゴメリーとバットン。1944年の西部戦線)
2006 #238 Marlborough (18世紀のスペイン継承戦争と思われる)

S&T誌は、古代・中世、近世、第一次大戦、第二次大戦、現代、アメリカ独立の6つのテーマがかならず毎年のゲームの中で出版されるよう計画している。2004年から2007年までの時代別ゲーム一覧は次の通り。

  2004 2005 2006 2007
古代・中世 #222: Ottomans #229: Khan #234: Last Darkness Fall #240: 1066
第一次大戦 #223: 1918 #228: Old Contemptibles #235: No Prisoners! #241: Ottoman Twilight
アメリカ独立 #225: Twilight's Last Gleaming 2 #231: French & Indian War #236: Died with Boots On! #242: Died with Boots 2
第二次大戦 #227: Vinegar Joe's War #230 Downfall #237: Dagger Thrust #243: Manila
近世 #224: Sedan, 1870 #232: Catherine the Great #238: Marlborough #244: Triple Alliance
現代 #226: Middle East Battles #233: Cold War BAttles #239: Winged Horse #245: SEALORDS

青文字のゲームは今回新たに選択したもの。
以上の企画とは別に、既刊の朝鮮戦争のゲーム「Gauntlet」のキャンペーンゲームとして企画された「Chosin」は、S&Tの付録として出版するには大きすぎるので、朝鮮戦争全体を描く、ゲームマップ4枚のモンスターゲームとして開発を進めることにした。

「Dagger Thurst
1944年の、Metzからルール川 (ドイツ北西部のライン川の支流)までの細長いマップで、マーケットガーデン作戦が実行されなかった時の、パットンの架空の侵攻プランをシュミレーション。1ヘックス7マイル、1ターン3日。Ty Bombaがデザイン。

「Winged Horse
S&T#35のアップデート版で、1965年の北ベトナム共産党の攻勢とアメリカ軍の反撃を描く。第一騎兵師団によるエアモバイル作戦が可能で、Joseph Mirandaがデサナイナー。

「SEALORDS
Joseph Mirandaがゲームデザイナーのベトナム戦争後期における、メコンデルタ地方のベトコンの一掃を描く作品。